野口晴哉先生のこと

野口先生のはじめた「野口整体」

「野口整体」という言葉を聞いたことがある方はよくいらっしゃいますが、では「どのようなものか」というと「整体」という言葉の持つ印象からさまざまなイメージを持たれるようです。特に現代では「整体」という技法が民間療法や治療の方面で多様化しており、野口整体も代替医療の一種としてみられる傾向がつよいと感じています。

「野口整体」とは野口晴哉(はるちか)先生(1911-1976)が始められた、「人間が〔今〕に全力発揮するための教育(体育)」です。ですからまずここでは、「野口整体」を知っていいただくために野口先生とその仕事について、私なりに見聞きしてきたことに自身の体験を重ね合わせて、ごくごく簡略に書き現してみたいと思います。

偶然の「手当て」の始まり

野口先生は二歳の時にジフテリアにかかり声が出なくなられたと言われています(後に「気合い」を修行して喋れるようになった)。そのためか、子供のころからよく本を読み、催眠術や自己暗示などにも関心を持たれていたようです。また小学校の頃にクラスの子の歯の痛みを手当てによって癒やしたという不思議な体験をします。

そして十二歳(大正12年)の折、関東大震災を体験して、そこでまず近隣に住む女性の腹痛を「手当て(愉気)」によって癒したことをきっかけに、被災された多くの傷病者に次々手を当てることになりました。ここから治療家としての活動が始まります。

「整体」の確立

その当時(大正時代)には霊術や霊学と言われる心霊ブームがありました。今風に言えば「スピリチュアリズム」の風潮に近いかもしれません。当時は折しも日本の近代化に伴い、西洋文明を取り入れて科学至上主義へと変遷していく時代です。その一方で、近代科学では解明できないけれども、それまで一定の効果や価値が認められていた技術や文化(従来の日本的価値観)を失わないように保護・再興しようという向きもありました。

そして戦時中に多くの民間療法家、健康法の指導者らが一同に集まり、各々が経験的に培った治療方法を残そうとする集まり(整体操法制定委員会)が発足します。それぞれが持ち寄った技術を適応する患者に施し、効果に一定の再現性が認められたものだけを集めてこれらを「整体操法」として纏めていきました。野口先生はその編纂の中心となって尽力され、日本屈指の技術を有する一大治療家として活躍される契機となります。

治療家から教育者へ

ところが、やがて多くの患者の求めに応じて精力的に治療を行うことに疑問を持つようになります。技術を高め、巧妙に治療を行うほどにこれを求める人の数はいよいよ増して、また自分の健康を他人任せにして平気でいるずさんな人たちが増えるのを見かねて、およそ次のようなことを考えられたようです。

「このままいくと地球の半分が医者になっても足りなくなってしまう。」
「人間は本来何ものにも頼ることなく、自分の健康は自分で保てるように出来ている。」
「もともと持っている力を十全に発揮するには、治療ではなく、そういう身心の教育(体育)を施す必要がある。」

このような経緯で「治療」を辞退し、教育家(整体指導者)へと転身されました。

野口先生が遺されたもの ―全生思想―

元をただせば、手当てを始めた10代より「活き活きと生を全うする」という独自の「全生思想」を打ち立て、17歳で興した活動団体を『自然健康保持会』と号していました。この時すでに思想家としての野口先生は完成していたとも言えるでしょう。

さらに「愉気」、「活元運動」、「体癖論」、など技術・思想の両面において、今後時代や地域がどのように変わろうとも揺るがない、普遍的な人間生命の捉え方、活かし方を確立されました。

野口先生の確立された整体法とは「心と体をどのように使えばいいのか」という基準を、外にではなく個人の裡なる「身体感覚(無意識)」に委ね、何ものにも依りかからずに自身の足で立って、生きて行くための身体の教養です。

折りにふれ、科学的医療に対する不信や限界もささやかれる現代において、外から守り庇うのみでなく、潜在生命力の発現を促すための「真の体育」として野口整体は今後ますます評価され、また再考され続けるものであると私は考えています。