病気とは「抑圧」された感情を解放する力

心と体は「同じもの」を指している

「病気の中には心因性のものが多くある」という見方が現代の科学的医療の中でもある程度認められてきています。

ところが私たちのような心と体を同じ一個ものとして見る立場の人間から言えば、心因から切り離されて存在する身体現象というものは皆無なのです。

例えば坂道を駆け上がれば苦しくなりますし、温泉に入れば気持ちが良いものです。この時に「苦しい」あるいは「気持ちが良い」といっているものは「体」なのか「心」なのか、などと考えるのは大変おかしなことです。

恥ずかしくて顔が赤くなるのも、怒って血圧が上がるのも、みんな心因でありまた身因でもある、というのが生きている人間の実体です。

赤くなるからやがて恥ずかしさが消えていきますし、血圧が上がるから下がる時に怒りの情動が鎮まるのです。

また、泣いてしまえばもう悲しくなくなり、笑った後ではもう可笑しくありません。

このように心と体が一体になって動いていれば、全ての感情は消化され病気になる必要はないのです。

病気は生命を守るはたらき

ところが人間には見栄や体面、社会的制約など、その他もろもろの原因で心の向くままに身体が動かないことが実に多くあります。こういう状態にある方はみんな病気の必要性がある人たちです。

抑えた感情は大抵体を固くするものですが、風邪をひいて熱が上がれば体は弾力を取り戻します。また下痢なども体をゆるませる反応の一つです。

現代を生きる多くの人は「薬」でこれらの反応をみんな止めてしまいますから、身体の回復要求が充分満たされずに終わる風邪もたくさんあります。

しかし、病気の本来の目的というのは身体を破壊するようなものではなく、すべて生命の自浄作用であり、身体のバランスを取り戻そうとする平衡要求なのです。

抑え込んだ心が発症の原因

精神分析という学問分野を開拓したフロイトの患者に次のような症例がありあす。

エリザベート(仮)というこの女性患者は原因不明の両脚の痛みを訴えてフロイトのもとを訪れました。

フロイトが一年ほど分析を行なっていく中で、エリザベートには二人の姉がおり、その次女の夫に対して好意を持っているということが明らかになっていきます。

実はこの次女はエリザベートが両脚の痛みを訴える少しまえに病死しており、そのことで彼女が「これで私はお義兄さん(次女の夫)と結婚ができる」とふいに思った、ということを思い出していきます。

しかし、このような不謹慎な考えは彼女にとって承認しがたいものであったために、すぐに「抑圧」したのだ、ということまでがだんだんとわかってくるのです。

この一連の心の動きがすべて思い出され、フロイトに話し彼女の意識でも捉えられた後で、ほどなく脚の痛みは消えた、と言われています。

「意識化」することの大切さ

つまりエリザベートの「両脚の痛み」は大本である「心の葛藤(苦しみ)」の代替わりをしていたのだ、とみなすことができるのです。

こうして聞くと多くの方は非情に稀有な、面白い症例のように思われるかも知れません。

しかし人間の身体をレントゲンや体温、血圧というように分解しないで、全体として見ていくと、必ずこのように「症状」と「心の動き」とのつながりを読み取ることができるのです。

実は風邪のような内科的症状から打撲のような外傷まで、身体に起こったことで心が関与していないものは一つもありません。

そこで治癒のためにもっとも大切なのことは、無意識層に抑圧された感情を意識化させることなのです。

せい氣院の整体ではこの「気づき」のプロセスを何より大事にしているのはこのためであると言えます。

治療は「自由で保護された環境」の中で

「抑圧」というのはあらゆる条件下で起こります。

先ほどの例のように、自分自身が承認しがたい感情であるという場合もありますし、ある環境(社会規範など)においてゆるされない思いや思考が抑圧されることもあります。

たとえば戦時中の日本では「男は泣いたり笑ったりするものではない」などと思われていました。そうすると、そのような感情は表現化を阻まれ、その結果無意識層に抑え込まざるを得なくなります。

こうして「抑圧」された感情が再び「浮かび上がってくる」ためにはどのような思いでも受容してもらえそうだ、という充分に保護された自由な場をクライエントに提供することが必要です。

子供用の心理療法としてよく行われる遊戯療法(プレイセラピー)などは、ほぼこの仕組みのみに頼って治療を行なう手法と言えます。「ここならどんなことでも許される」という「場(雰囲気)」の中で思い切り創造的に遊ぶことで、身体上の疾患のみならず、夜尿や盗癖といった心理的な問題までを解消していこうとするものです。

このような「場」という条件の中には当然治療者も含まれます。人対人の中にある種の信頼関係が必要ですから、場ができあがるまでに一定の時間を要することもあります。

しかしプロセスはどうあれ、クライエントにとっての快適な環境が充分に行き届くことで徐々に回復要求が高まり、だんだんと治りはじめるのです。

本来の治癒は苦しみを伴う

この時に気を付けなければいけないのは、治癒には往々にして「苦しみが伴う」ということです。

そもそも病気の実体が、受けとめきれない負の感情が凝固してできたものですから、これが治癒に向かって動き出すということはその凝固した感情を改めて体験し始める動きが出てくることを意味します。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で、それまで何でもなかった人が自宅に帰ってからわんわん泣いたり、もともとの気分障害が余計に悪化したりするのはこのためです。

人間が本当の意味で「治る」といったときに、そこに「苦しみ」を伴わないものはないのだ、と言ってもいいくらいです。

繰り返しますがこの時に非常に重要なのが治療者を含む「場」の力です。これが完備されることで自然治癒は100%に近い形で表出し、身体は自然のリズムで回復していきます。

これとともに無意識の中に溜まった未消化の感情が掃除され、顕在意識をおびやかすような要素が解消されていきます(無意識層に意識活動を邪魔する要因を何も残さない空っぽの状態を野口整体では「天心」と呼ぶ)。

この時身体全体の動きは本来の自然性を取り戻し、どこにもしこりや滞りを残さない「整体」に至るのです。

病気というものは「痛ければ痛い、苦しければ苦しい」という自然の動きを乱すことなく、「そのまま」経過させていくことで全心身のバランスを整える力として活用することができるのです。

そして整体で病症をみる(整体操法を行なう)と言った場合には、こうした身体のバランス作用としてある病気のはたらきを巧く手伝うことがその実体なのです。

このようにして自然の流れに順じて「治った」ときには、自然に抵抗して「治された」ものにはない快感と美しさがあります。

せい氣院の整体を受けられる方には、是非このような生命原理に信頼を置いた生き方を実現していただきたいと思っています。

野口整体の整体指導とは

どのようにして「心の問題」に向き合うか

病気とは「抑圧」された感情を解放する力

自己実現 – 整体によるアプローチ

「人生」を創造する病症体験

病気によって生命の偉大さに気づく

病気というのは、実際厄介なものです。痛みや痒みで体の自由を奪われたり、心の病なら、理由もわからずに暗い気持ちになって落ち込んだり、今までは何の気なしにやれていた仕事がある朝急に意欲が出なくなったりします。いずれも重度のものになると、これまでの生活を一変させるような破壊性を持っているものです。

それだけに病気になったら、一日でも早くその問題から解放されたい、つまり「治したい」と思うのが人情でしょう。

そこで近・現代では特に「科学的な」医学、医術というのが大変有力であるということで研究され、その結果、ある面では目覚ましい進歩を遂げてきました。

ところが皆さんもよくご存じのように、それだけで治らないものが世の中にはたくさんあります。そこで「どうしたものか…」ということになるのですね。現代の日本では病院(西洋医療)で手に負えないと思われた人たちが「代替療法」という未知の枠組みにおそるおそる立ち入っていく、というのが一つのスタンダードになりつつあるようです。

そこで新たに治る人もいますし、またそれでも治らない症状というのは当然あるわけです。そうすると、本当に助かりたいと思う人は「これは一体どういうことなのか?」という風に、「何故か?」ということをようやく「自分なり」に考えざるを得なくなってくるのです。

野口整体の整体指導とか、心理カウンセリングというようなものは、いわばこういう万策尽きたとでも言えるような状態になってはじめてお呼びがかかる、「最後の砦」として現れることが非常に多いような気がします。

そして、この「何故か?」という態度がゆくゆくは生命に対する謙虚さであるとか、畏れのようなものに通じる非常に大事な心の動き(伏線)である、というように私は思います。

病気は生命に備わる自然良能

病気というのは誰がやっているのかといえば、いわゆる「私」ではありません。先ほどから言っているように、「私は、治りたい」と思っているのですから‥。確かに私の心とか私の体の中に起こっている問題なんだけれども、その「私」という生命の中には(心にも体にも)私のあずかり知らない広大な未知の領域があるのではないか、とこういう風に考えることができるのです。

このような考え方を、心という枠組みの中だけにしぼって西洋で最初に表明したのがフロイトであり、その考えを部分的に否定しながらも発展的に深めていったのが彼の弟子筋のユングですね。

そんな未知の領域が本当は「私を生かしている力」として、非情に大切であり重要な働きをしているのだ、ということをユングとか野口晴哉という人は言っておられるわけです。この「未知の領域」についてはその場合場合でいろんな呼び方がされますが、よく言われるのは「神さま」とかそういうものです。

私の場合はこれを「自然」と呼ぶことが多いのですが、とにかく身体の中に、生まれてからずーっとバランスを取ってきているものがある。と、そういうことが事実の方からみていくとだんだん、だんだん認めざるを得なくなってくるわけです。

ごく身近な例をあげれば、ご飯を食べてもそれを知らない間に血肉に変えたり、うんちにしたりしています。それは眠っていても、人とおしゃべりしていても、本を読んでいても、絶えず働いているわけですから、誰がやっているのかといったらやっぱり「自然」がやっているのだ、ということができると思います。

病気というのも、実はこの「自然」がやっているものです。

例えば口から黴菌が入れば、それを食い止めようとして、咳もするし扁桃腺が腫れて発熱もします。咳は異物を体の中に入れまいとしているし、熱が上がれば黴菌は死ぬわけですから、これが病気の正体というのは身体を守ろうとする自然(本能)の働きなのです。

ところが熱が出ても咳が出ても、現代の多くの人たちはその働きをはなっから「悪いもの」としか考えていません。だからどうにかして止めさせようとするわけです。そうして、すぐに解熱剤を飲んだりして黴菌の方に加勢するのですから‥、こういうことが「治療」として行われていることは実は大変可笑しいのだ、と言わねばなりません。

治療とは、医療とは何か

先に挙げたように「治そう、治そう」とがんばっている間は、これは、言ってみれば「自然」と一所懸命戦っているようなもので、まず上手くいくことはありません。頑張ればそれと同等かちょっとオーバーするくらいの力で自分に跳ね返ってきますから、こんなことを繰り返していては誰だっていい加減疲れてきますね。せい氣院にはプロの看護師さんも整体を受けにいらっしゃっていますが、時々こうした問題ですごく疲れている方が相談に来られることがあります。

どういうことかというと、自分の看ている患者さんが、担当医が「何かする」たびに悪くなる、というのです。熱が出たら下げる、血圧が上がればこれも「基準値」まで下げる。それから入院されている方は、運動不足なうえに御飯だけは一人前に食べていますから大抵は夜眠れなくもなってくるのだけれども、そうすると睡眠薬とか、いろいろとやることは際限なく出て来るわけです。

ともかく、どうにかして身体(自然)を抑え込もうとするのです。でも先ほども言ったように、抑えようとすると身体は抵抗します。そうこうしているうちに、患者さんは昏睡状態になったりするものですから、こういう現状をみては「自分たちのしていることは果たして医療なのか‥」という風に、すごく悩まれている医療従事者というのは今や結構な人数がおられるのではないか、と私は思っています。

ただし、こんな風に西洋医療の功罪ということを考え出すと、一朝一夕で善いとか悪いというふうには、これはとても言えませんので他に機会を譲りたいと思います。ここでは一体「病気」というものにどう向き合っていったらいいのか、ということを考えてみたいと思います。

病気は使いこなして、身体を丈夫にする

例えば今ここに、ある人が「病気をした」なんていう場合に、整体特有といいますか野口整体では非常に面白い表現をするのです。つまり、病気は治すものでもなく、恐れるようなものでもない。では何かというと、それは「こき使うものである」というのです。

だから熱が出ているんだ、といったら後頭部を蒸しタオルで少し温めたりして、もうちょっと熱が上がりやすいように助けてやるのです。下痢をした場合も同じで、要は「何もしない」わけです。

何もしないというと誤解される方もあるかもしれませんが、つまりこちらから身体のやろうとしていることに「ぶつかっていかない」のです。もう少し違う表現をすると、「何もしない」ということは身体に対して協力的態度で接するということです。

そうしながら、心を落ち着けた状態で病気が経過するのをひたすらじっと待っています。こうすることによって病気をする前よりも、病気を経過することで身体のバランスを回復させていこうと考えています。

ただそのためには「身体の感覚」というのがある程度純粋でなければなりません。身体というのは成長するにしたがって手入れを怠ると鈍くなってきますから、例えば変なものを食べても赤ちゃんならすぐに吐いてしまいますが、大人になると平気で飲み込んで、下痢をするまでに時間が掛かります。

それから50歳を越してから40℃の熱を出すなんて人は滅多にないですね。それだけ体力だって衰えてくるのです(発熱するにはそれだけ体力が要ります)。それでも病気をすることによって、そのことが潜在体力の起爆剤となって心身は活性化するのです。

創造の病-人生を補完するための病症体験

一般的には「健康」と「病気」は二律背反という形でとらえられていますが、つまるところ病気というのは生命の健康であろうとする働きのひとつの側面です。体でも心でも「苦しいときに治っている」ということが体験を通じて見えてくると、少しずつ対応も変わって来ると思います。

そういう意味で整体というのは常識とは大分変わった世界観や生命観で人間を見るところがあります。ですけれども、そういうことから「苦しい病」、「治らない病気」の中にある人が、どんなふうに生きていくか、ということを別の視点で考えていくことができるのではないでしょうか。

これはもちろん個人個人、みんな苦しみの大小、質、内容というものは違いますから、「病気を通してあなたの人生をちょっと考えてみませんか」などとはうっかりは言えません。言えませんけれども、そこに一体どんな意味があるのか考えてみる、という態度をその方が知っているかいないかとでは、やはり同じ病気を経過する場合でも何かが違ってくると思うのです。

例えば先に名前をあげました心理学界の二大巨星とも言えるフロイトとかユングなどは、自分独自の(心の)病を自分で乗り越えて行ったことで自身の創造的な仕事や人生を創り上げていった一つのモデルとして考えることができます。

実はこれはアンリ・エレンベルガーというカナダの精神科医が見出した「創造の病(クリエイティブ・イルネス)」という考えをそのまま述べているのですが、病気や苦しみというのをそのこと(部分)だけにとらわれずに、その人の全心身とか全人格、人生の全体性という巨視的な視点に立って考えることで、そこに重要な意義を見出すことができるのだ、というのです。

そこで最初に戻りますが、やはり病気というのは辛いですし非常に怖いところはあります。ですけれども、それだけに心も体も普段は味合わないような揺さ振りを体験するものです。そういう中で、ゆれてゆれていった結果として、自分の中にある芯(中心軸)とも言えるような重要な個性が見つかったり、あるいはふっと誰かを頼ったときに意外な人間関係の展開が起こったりすることろが病気の面白いところでもあるのです。

こういうことから、病気というのは「よりよく生きようとする無意識の訴えである」という風に考えることができるのです。これも実際のところ嘘か本当かは、はっきりとはわかりません。でもわからないものですから、どなたでもずーっとその意味を考えていくことができるのだ、ともいえると思います。だから先の見えない苦しい状態にある人も、諦めないでそのことに一体どんな意味があるのかを自分自身に訊ねてみる、という道だけは残されています。

野口整体の場合は潜在意識教育といって自分の気づいていない心の領域の純化を提唱しましたし、ユングも無意識に備わっている、現在の自我に対する相補性ということをとても大切にしているのは、上に挙げたような思想哲学を共有していることの現れだ、とも言えると思います。

「整体院」の選び方

「整体」とは何か

現代の日本で生活していれば「整体(セイタイ)」という言葉を聞いたことのない方はほぼいらっしゃらないと思います。都心であれば駅周辺を4、5分も歩けば必ず数件の整体の看板に出会います。また「整体」に限定せずに、これに似たものとして手技による慰安や治療を目的とした様々な代替療法まで合わせて考えると、現在相当数の店舗や治療院があると思います。

こういった事情もあると思いますが、ときどき「整体に行けば○○が治るよ」と言われましたので・・・、ということで当院にご依頼をいただくことがあります。こんな時、その方は一体どんなセイタイを思い浮かべているのか、あるいはイメージも特に沸かないまま友人に勧められるままにご連絡されたのか、それによってこちらもいろいろと対応を考えていかなければなりません。ひと口に整体といっても今はいろいろな種類があるからです。

これを例えるなら、ある人がお医者さんから「健康のために少しスポーツなどおやりになるといいですよ」などと提案された時に、スポーツといってもそれぞれ違いがあるのに似ています。サッカーと野球くらいの違いならまだいいかもしれません。水泳もスポーツですし、ゲートボールもスポーツです。これでは年齢や性別を問わず、スポーツをやったらどれも同じように「体に良いですよ」とはとても言えません。

これと同じように「整体」という共通の言葉を使っていても、それは施術者とか先生方によって、まったく違う価値観によって様々な技術を施しながら「整体」と言っているのが現状なのです。そのために見当違いの所ににうっかり入ってしまうと(これは受け入れるプロ側の責任が重いと思いますが)、満足いく結果を得られることはまずありません。それどころか却ってクライエントが混乱したり、状態が悪くなることもしばしばあります。

ですからもしあなたが紹介者や確かな情報源のないまま、はじめて整体を受けようと思われるならまず「整体」を知ることが得策です。ちょっと面倒な気もしますが、見慣れてくるとだいたいくつかのカテゴリーに分かれていることが解ってきます。その中で自分自身の症状や目的に合った通いやすい先生のところに行かれればいいのです。そこで次にそのいくつかのカテゴリーをごく大まかにですが紹介したいと思います。

A.物理的なアプローチを主体とするタイプ

このタイプは整形外科のような病院に近い身体の見方をしています。もちろん整体は民間の資格ですから厳密に言えば「治療」は行えません。ただ医学的に身体の構造をよく勉強して施術にあたっている先生が沢山います。あまり心理的な問題などに関心のないクライエントならピタッといく可能性が高いでしょう。

また頭痛とか肩こり、不妊など特定の症状に特化した所が多いのも特徴です。さらに突発性・一過性の痛みや故障などにも上手に対応される先生もいます。いろいろな身体の問題解決に従事されている方が多いタイプです。

B.慰安目的の揉みほぐしを行うタイプ

大手チェーン店などが専用のセラピストさんを一定期間教育して店舗展開していたり、自宅サロンの様な形で個人経営の方がマッサージに似た手技を施すスタイルでよく行われています。何分いくらという時間売りの料金設定なっているところが多く、病的な悩みを解決するというよりは、いわゆる「癒し」を目的とした技法がメインといえます。ですが、行う人によっては自然治癒力を高めるなどいろいろな副次的効果もあるようです。

C.気やオーラなど見えないエネルギーを重視して調整をしていくタイプ

「気とは何か?」この問いだけで今までどれだけの本が出ているかわかりません。しかし何かそういう目に見えないエネルギー体があって、それが生命活動に深く関与している、という考え方は古くから世界中のさまざまな地域で認められています。

この気やエネルギーに着目して心身のバランスを調整していく技術を専門にされている方がいます。このスタイルの中だけで技術や表現方法は非常に多種多様で、一括りに理解することは難しいタイプです。施術者特有の考え方や、独自の理論にどれだけ理解や共感ができるかで成果が変わるともいます。

D.スピリチュアル、心霊療法など施術者の特殊な力に頼ったタイプ

霊感の様な施術者の先天的な能力をベースにしていろいろな悩みに応えるスタイルです。「整体」以外にも、○○ヒーリングとか○○セラピーのような名前で行なう技法も多くあります。料金設定に幅があるのも特徴で、かなり高額の施術料を設定されているところもあるようです。

先生や院のカラーを見究め、自分に合った整体院をさがす

以上、一般的によく見られる4つのカテゴリーで説明しましたが、これらに属さない「整体」も多数存在します。人間の身体を刺戟して、症状を消したり体力を掘り起こす技術は無限にあると思った方がいいでしょう。また実際は上に挙げた4種類がきっちり区分けされているかといえば、どれも複数のタイプが微妙に混ざり合って固有の技術を構成している場合がほとんどです。

また熱心な治療者に共通してみられるのは、キャリアが進むにつれて他の分野の知識や技術を積極的に勉強してバランスよく習得されていく傾向があるようです。例えばもともとAのタイプから始まった先生が、どうしても肉体的なアプローチだけで解消できない症状に突き当たって、考えて行った末にCに書いたような気やエネルギーの理論に辿り着いたり、Dのような特殊な感性による治療から出発した先生が必要に応じて少しずつ生理学や解剖学(Aのタイプ)の勉強をしていくというコースなどが挙げられます。

ちなみに「せい氣院」はどのタイプかというと、CとAが最も濃く、そこにBの要素が少し混ざっています。

Cのところでも述べましたが、最終的にはその治療院の先生と理論や価値観を共有できることがとても重要であることも申し上げておきます。その方独自の治癒理論や健康観、幸福観など、「健康とは、人間の心身がこのような状態であることを指す」という所をしっかり共感し、納得できると施術者とクライエントの間に非常に良い関係性が生まれます。施術者とクライエントの間に強い信頼関係が築かれることで高い効果が得られるのは共通の事実です。裏を返せば信頼関係がなければまったく成果はあがりません。

もとよりご自分の身体に関わることですからいい加減な気持ちで整体院を選ばれる方はいないと思いますが、「整体というのが全くはじめてで、基準も何もよくわからない」という方は少しこちらの記事を参考になさってみてはいかがでしょうか。あなたにぴったり合った「整体」に出会えますように。

治療を考える

治療とは「何」か

このページでは治療とは一体どのような行為を指すのか、ということを考えてみようと思います。因みに法律的には日本で治療を行えるのは医師のみです。それ以外の職業にある人が治療的行為を行ない、またその効果を主張することは違法となります。ですのでここでは社会一般通念上の「治療」の概念まで範囲を広げて考察したいと思います。

一般的には人が病気やケガといった不快症状に陥った時にそこから早く逃れる目的で「治療」は求められます。そのために治療とは「病的な症状を消滅させる行為」、もしくは「発症またはケガをする以前の状態に戻す行為」のように漠然と思われているのではないでしょうか。

命は正常であろうとする

ところが冷静に身体上の変化を観察してみると、病症にはある「意味」が備わっていることがわかるのです。ひとつ熱を例にとってみるとわかりやすいと思いますが、発熱という作用は身体内の温度が上がることで黴菌を殺します。そしてその温度によって内臓や骨格筋もゆるみ、からだ全体を本来の位置に戻す動きが起こります。

このように生命にはもともと「全体性」を保ち続けようというある「はたらき」が備わっている訳です。それは「自然治癒力」であるとか「恒常性維持機能」とか、また「動的平衡」などあらゆる表現法がありますが、いわゆる命が「正常であろう」とする力です。

現代の常識的には病気とはこの「正常であろう」とする力を脅かす存在としてとらえられ、その予防と排斥に近現代の医学の力は注がれてきたと言えます。

治療とは呼べないもの

ところが先ほどの熱の例に戻って考えると、黴菌を殺す熱は身体を治す役割をになっているのにそれを薬によって下げるということは黴菌の方に加担していることになります。こうした例に限らず現代の日本ではあまりに手を加えすぎて反って生命の流れを歪め、症状をこじらせてしまう問題(医原症)が後を絶ちません。

本来は身体の平衡要求が活性化するように助けることが治療であるべきなのに、熱が出たらそれを下げる、悪いものを食べて下痢をしたらその下痢を止める、こういうことが治療として行なわれているのは実際不思議です。

生命活動を支える行為

そのように考えていくと、治療というのはもっと自然の体力が活発になるように環境を整えるなどして生命活動をゆるやかに支えていくほうがずっと理想的です。

これを少し分解して考えると被治療者の自己治癒力を「引き出す」「妨げない」「障害を取り除く」という三つの段階に分けることができます。これは精神科医の神田橋條治先生からお借りした言葉ですが、治療者としての理想的な態度が端的に纏められていて興味深い表現です。

せい氣院の手法

ちなみにせい氣院の個人指導においては「対話」「手当て」「自由運動」を主に用いています。これらは全て先に表した3つの段階を充たすように心掛けて構成されています。これらの手法によってクライエントの心が自然に動き始めて本来の「らしさ」や「自発性」を取り戻していくことを期待します。なぜなら人間の体力というのは自分の意志で動いた時にもっともよく発揮されるからです。

つまり身体内の病症という自然治癒のはたらきを100%活用して心身を丈夫に創り変えてしまうような、野性的な体力を揺す振り起こす方法を採用しています。

治療を考える

よって当院なりに「治療とは何か」をまとめてみると、

  • 治療とは相手の生命活動を邪魔しないこと
  • 治療とは相手の力に気づかせること
  • 治療とは自発的に動ける心身を保たせること

以上の3点に集約されます。

臨床に於いての個々の手法は今後も改良の余地はありますが、当院の個人指導は原則的にこの価値観に則して行っていきます。一般的な概念と比較すると場合によっては正反対になる面もがりますが、自身の体験に基づく正直な価値観です。自身の命にみだりに手をつける前にみなさんにとっての「治療」とは何か、を一度よく考えてみてはいかがでしょうか。

治るしくみ

自然治癒力について

人間には病気をしてもどこかを痛めても、自分で身体のコンディションを一定に整えていく「自然治癒力」が備わっています。

そのために命というのは本来はこわれてもまた治るものであり、身体が正常であるなら、絶えず何処かをこわしたり治したりしながら健全な日々を送っています。

しかし「慢性病」という言葉が象徴するように、人間にはなかなか治らない病気や同じような怪我・痛みを繰り返してしまうこともよく見受けられます。

このように、ある特定の状況において肩こりや腰痛が慢性化したり、あるいは癌や肝硬変など難治性の病症が存在するのは何故なのでしょうか。

身体の正常なはたらきを妨げるもの

先に述べたとおり身体は生まれた時から命を全うするために活動しつづけます。健康ということは、こうした生命の自然がそのまま身体上に現れていることです。

ところが人間は精神活動を生活の中心とした生き物であり、感情の状態が身体に大きく作用します。例えば強制によって自分の意思に反して行動していると体力は充分発揮できません。逆に、自発的に動けば同じ荷物を背負って歩いても軽く感じます。

このような感情の動きによって身体の無意識的なはたらきは影響を受け、その中で身体の自然治癒力も活発になったり逆に妨げられたりしています。

病気の種類は無限にありますが、その元には程度の大小はあっても不快情動というものが必ず介在しています。この感情をどのように消化していくかということが整体やカウンセリングでは重要な仕事になります。

身体の緊張と心の滞り

「整体(健康)である」とは快活な心が一定に保てる状態です。心が自然であれば身体も活発に動きます。

一般には心や感情は脳の中にあると思われがちですが、不快情動というのは運動系の筋肉の緊張(コリ)となって現れています。

つまりコリというのは筋肉の無意識的な緊張というだけでなく、ある種の感情がロックして同じ思考から抜け出せなくなってしまった状態をも意味しています。今は心の病が注目されていますが、その代表ともいえる「うつ」というのもこの延長にあるのです。

そして身体のコリはその部位の力みを自ら認識することで、自然とゆるんでいくという性質があります。

ゆるむと治るわけ

以上のことから、整体では特に「ゆるむ」ということを身体が治るプロセスで重視しています。びっくりした時や緊張した時に、力を入れるということは訓練をしなくてもできますが、緊張が去った時に「ゆるむ」ということがなかなかできなくなっている身体をよく見かけます。

身体は緊張とゆるみがバランスよく繰り返されていると、自律神経が正常にはたらいて免疫力も自然治癒力も高まります。

現在日本で行われている都市型のボディワークでは、いかにゆるめるかということに焦点を絞っているものが多いのはそのためだと思います。

整体では身体の中でも特にバランスを崩すポイントとなっている筋肉の緊張を一つ一つ見つけ出して、気の手当てである愉気法により解放していきます。このような筋肉の緊張がゆるむと身心ともに主体性(いつもの自分)を取り戻すことができるのです。

身体に緊張・弛緩のメリハリが戻るにつれて感情も自由になり、外側だけでなく内面からも元気になっていきます。

この状態を一定期間保っていくことにより、自然治癒力の及ぶ範囲内で心身は徐々に癒えていくのです。

身体の「凝り」と感情

身体の「凝り」は、固まった感情エネルギー

整体の目的は全身の緊張をゆるめてコリを取り除くことにあります。からだ全体がすっかり柔らかくなると、心と体のあらゆる問題が解消されるからです。原理はとても簡単ですが、この身心の硬直を解くことは、(個人差もありますが)なかなか容易でないことが多いものです。

身体の凝っているところや固い所を、粘土のように捏ねたり揉んだりしてもゆるまないことは、いまや多くの方の知るところでしょう。何故なら、揉みほぐすことでは身体を硬くしている「もと」が解消されないからです。
身体のあちこちを固くしているのは、出しそこなった感情エネルギーです。中でも過去に生じた不快情動が筋肉・内臓・骨格などを固まらせています。嫌な気持ちを頭で抑え込んだことで、排出しそこなった感情エネルギーが自律神経系を介在して身体のあちこちを硬張らしてしまうのです(風邪の発熱などにはこうしたコリをゆるませる働きがあります)。

ですからその停滞した感情エネルギーが流れることで、解消されなければコリはいつまでたってもなくなりません。そのためにはいろいろな方法がありますが、当院では気の手当て(愉気)と活元運動という身体をゆるませる体操を行って不快感を消化し、思考をニュートラルに戻します(ポカンとすること)。頭の働きが休まれば骨格は正しい位置に戻り、背骨も自然と伸びて真っ直ぐになるからです。

「プラス思考」は本当にプラスを生むか

人間の身体を動かすものは感情です。思考ではありません。悲しい時に泣いたり、可笑しい時に笑うと、身体は自然にゆるんでいきます。これは感情と身体が調和して動いているからです。逆にいやな気持ちを抑えて泣かないでいると、抑圧されたエネルギーが凝固して身体のどこかが硬くなります。だからと言って肩のこった人がゆるもうと思って、無理やり「泣こう!」と考えても涙は出ませんね。こんな風に「考えたこと」は身体の生理機能に対して作用する力は弱いものです。

また、最近はブーム(?)が去った感がありますが、少し前に「プラス思考」というものが流行りました。「何ごともプラスに捉えて、嫌な考えをは頭の中から締め出してしまいましょう」というものです。身心に不調を抱える人の中には、努めてこのような心がけをしてきた方を何人か見てきました。

確かに、この「プラスに考えよう」という姿勢はある面では良い効果が見受けられます。その一方で、「思考」に頼りすぎたことで、自分の「感じ」たことが解らなくなっている人がいるのもまた事実です。こういう方は、まるで「思考」によって「感情」が塗り固められ隠れてしまったかのようです。さらに、実際はいくら「プラスに考え」たところで、最初に味わった「マイナスの感情」はずっと消えずに身体に残ったままなのです。

先に書きました通り、身体には出しそこなった感情がコリや偏り(歪み)という形で残っています。整体指導の場では、こういった「くやしい、悲しい、イライラ」などの跡を身体に見つけて、「こういう気持ちになりませんでしたか?」、というように水を向けると、「ああそういえばそうだった・・」と気付かれる方がいます(実際はこのように簡単にいかないことが多いのですが…)。こんな風に、身体上のコリは自身の裡なる感情の気づきによってゆるんでいくものです。
ですから「考え方をプラスに・・」と工夫するだけでは「感情」が抜きになってしまい、心の底から納得してゆるむことはむずかしいものです。「生きている」間は喜怒哀楽だけでなく、あらゆる感情、情動が絶えず浮かんでは消えて行きます。ですから嫌なことがあってもそのまま受け入れて、「自然の感情、あるがまま」を認めることができれば、プラスもマイナスも超えた普遍的な肯定(プラス)になるでしょう。どんな感情であっても平気で受け入れることができたら、それだけ自然に近くなり丈夫になったといえます。「本当のプラス思考」とはこのような態度ではないかと私は思っています。

思考を休め、感情に気づく

自分の身の上に起きた感情に気が付いたら、あとは自然に発散させてあげるだけです。方法はどんなやり方でもいいでしょう。一般的なのは歩く、走るなどの「移動をともなう運動」や、TVや映画などを観て泣いたり笑ったりするのも有効です。またカラオケのようなもので大きな声を出すことも、横隔膜を起点として身体をゆるめてくれます。少しはげしい方法として、「お皿を割る」なんていうのもあります。自分で意識してやるのと、無意識にそうしてしまうのとありますが、いずれにしてもガチャン!という大きな破壊音を聞くと何故かわかりませんがすーっと気がゆるむのです。

全般に、「まじめでがんばりすぎる方」、「謙虚すぎてしまう人」ほど自分に起きた感情を過剰に抑えてしまう傾向があるようです。また理想の自分像を強く持っており、そのギャップを埋めるべく「あるがままの自分」を受け入れられないというケースもあるようです。

理由はどうあれ、身体に閉じ込められた感情は、気が付いた時点から流れていき消えてしまいます。この感情の発散が行われることで、はじめて人は「ゆるむ」ことができます。整体指導において、何よりも「観察」を重んじるのはそのためです。「何によって身体がそうなったのか(最初の感情の起こり)」が解らなければ、技術の施しようがありません。逆に言えば技術とは観察力(原因究明力)が全てと言ってもいいでしょう。

感じて動く、「あるがまま」の自分

「感動」という言葉がありますように、人間は感じて動くものです。誰もが感じたとおりに動いているならば心も体もこわれません。腰痛も、肩こりも、うつも、「自分流の自然な生き方」ができない人に起こりやすいものです。あるがままの自分(の感情)を解放して(話して)しまうと、誰もが自然にゆるむことが出来るのです。ですから当院の整体は、身心ともにすっかりゆるむために行う技術なのです。整体に限らず、自分に合うゆるみ方を探して、あるがままの感情をゆるして生活できるようになると、毎日がずっと楽しく、ラクなものになると思います。

「どうして自分は疲れやすいんだろう」と疑問に思う方は、「考え方」ではなく自分は今「何を、どう感じているのだろう?」と自身の内面に目を向けてみてください。意識を休めて心の深層を感じることで、不調の原因に自分自身で気づき、きっと今よりも楽になるヒントが見つかると思います。

発熱の意味

熱は下げてはならない

最近になって医学界においても「発熱」の有益性を認められ、「出ている熱をむやみに下げてはならない」、という考え方が定説となってきました。ですが、一般社会においてはまだまだ「熱は良くない状態」、「治すべき病症」として扱われるのが現状です。いわゆる「常識」といわれるもの、最初に「思い込んだ」ものというのは、無条件にそれが「正しい」と思われやすいようです。

整体指導に通われる方でも半年、一年と経ちますと、「病症は身体を整える働き」というように、ある程度の理解が進んできます。ですがふいに風邪などを引くと、途端に薬を飲んで、余分に寝て治そうとする方がいます。そのたびに頭の「理解」と体の「自覚」というのは、こんなにも隔たりがあるものだといつも考えさせられるのです。

そもそも「発熱」とは菌の繁殖を防ぐためのものですから、その熱を下げるということはバイ菌に加勢することになるわけです。本来はこういうことが「治療」と考えられていること自体が可笑しなことなのです。

下痢なども同じです。腸内にあっては困るものを早く出してしまおうとしているのに、下痢という作用だけを睨みつけて、「お腹が壊れた」、「下痢さえ止まれば良い」というのは大変乱暴な考えで、またそうした行為は身体にとってとても迷惑なことです。本来は、熱なら熱が出やすいように、下痢なら下痢がスムーズに流れ出るように環境を整えてやるのが自然の命に対する礼だと言えるでしょう。

「自然」には逆らわず、むしろ味方につける

古代の中国には「もし黄河の氾濫を止められたら、その人は宇宙の王様(皇帝)になれる」という言葉があったそうです。これについて少し深く考えてみると、そんなことはとても不可能なんだ、という気がします。

科学技術が進んだ現代なら、と思わなくもありませんが、日本の三陸沖で起こった3.11の地震と津波の前に、高度に発達した科学文明が瞬時に押し流されていく姿は記憶に焼き付いているはずです。こんな現実を直視する度に、やはり科学は自然を完全に抑え込むことはできないのではないかという気がします。

自然に抵抗すればやがてはその抵抗した力が自分に反ってきますので、よくよくその性質を見極める必要があります。そしてその「自然」の力をうまく味方につけようというのが「野口整体」という生き方です。整体指導を受けられる方はよくよくこのことを思い返して、心と体に繰り返し沁みこませていただきたいものです。

整体をやるための視点と価値観の転換

整体をやろうとしても最初にこの健康観、病症観が転換されなければ、いくらやっても、整体にならないのです。取って付けたように、良いとこ取りで整体をやろうとすると、「首から下は湯船につかり、頭から氷水をかぶる」というような無茶苦茶な刺戟になりかねません。

まずは生まれてから今日まで、自分の命を保ってきた「ある働き」というものに目を向けることが始まりです。これまで寝ても覚めても必要に応じて熱を出し、下痢をして、身心のバランスを保ってきたものは一体「何」なのか。整体を志すからには、この「ある働き」の方に信を置いて生きるという態度を先ず備えなければなりません。

野口整体の愉気(気の手当て)も活元運動(自然運動療法)もこうしたを自然の力を開花させるための方法であって、身体の働きに抵抗するようなものではありません。整体はいのちの自然を中心に置く考え方であり、また「そのような生き方」をしたいという方のためにあります。ですからここのところを事前によく理解していただいてから、着手していただきたいとも思っています。