うつを考える
うつ的気分は「何を」訴えているのか
単に「うつ病」といっても、症状の軽重やうつになったきっかけ、原因によってその苦しさや意味合いもかなり変わってきます。
気分が重度に落ち込んでしまえば、学校へ行けない、あるいは勤め先に行けない、など直接的に実生活への影響が出てきます。
また薬を飲んでも改善されないどころか、服用したことでさらに苦しい気分を味わったという人のお話もよく聞きます。投薬治療の是非についてここでは論じませんが、薬を飲んでも治らない、長期休学・休職をしていてもよくならない、というような方がせい氣院にお越しになられることがあります。
このような方からお問い合わせのとき直接的に「そちらの整体でうつ病は治りますか?」と訊かれることもありますが、これは非常にむずかしい質問です。
何故かといえば、これはどのような病状にも言えることですが、Aさんのうつ病とBさんのうつ病は診断名は同じでもその中身はまったく違うからです。
ですから本当のところはお会いしてみないと判りません。もっと言えば一緒に数ヶ月取り組んでみなければ、その方がどのような事情で苦しんでいて、どんなプロセスを踏んで治っていかれるかは解らないのです。
ただ一つ言えることは「うつ」とはその人をただ苦しめるだけの病気ではなく、よりよく生きようとするこころ(たましい)の声であるということです。
このような視点でその苦しさに耳を傾けていくと、今まで気づかなかった自分らしさを見つけ出したり、人生の中で今まで光の当たっていなかった可能性の部分を拓くきっかけにもなりえます。
くり返しますが「うつ」はただの病気ではなく、心の自然治癒現象、よりよく生きようとする成長の痛みである、と考えることができます。
身体からこころにアプローチする
精神科のお医者さんやカウンセラーの多くは、主に「言葉」を使ってクライエントを絶えず緊張させている心の引っ掛かりを一つ一つはずしていこうとします。もちろん治療者の力量にもよりますが、このような方法で治っていかれる方は相当数おられると思います。
せい氣院の場合は整体(野口整体)をベースとしていますので、病院の診療室やカウンセリングルームで行なう投薬や対話中心の治療法とは異なる手法を取ることになります。
つまり「触れる」ということが大きく違うところです。実はうつの人というのは大体において身体がカチコチなのです。冷えて固くなった粘土のように弾力性に乏しくなっています。
ですからこれがほぐれるように手技によって、ゆるめていくことで気持ちに余裕が生まれてきます。この「ゆるみ」を誘うための要素として「気」ということが大変重要なのですが、気の概念を短い文章で説明することはむずかしいのでここではいたしません。
ともかく皮膚がゆるむようにやさしく触れていくことで、身体はもとの弾力と柔らかさを徐々に思い出していきます。
これに合わせて、ご自分の内面に向き合うだけの余裕のある方には対話も行なっていきます。このように皮膚感覚と言葉の理解の両方からアプローチしていくのが当院の特徴です。
技術や方法論以上に大切なのは「関係性」
でも本当は、どのような「やり方」をするかはそれほど重要ではありません。何をするかよりも、どんな人とどのような雰囲気の中で治癒が行なわれるかが何より大切なのです。
おそるおそる、はじめて訊ねて来られたクライエントさんに、「あ、この人ならわかってくれそうだ」と心の底から安心してもらえなければ、それこそ「お話」にはならないのですから‥。
これは治療の技法や理論を超えた、人間性とか人格という領域の問題だと思いますが、治療現場において一番大事なのはそういう人と人の間にある「関係性」であるということは、心理療法を少しでも勉強された人ならだれもが知っていることだと思います。
ナイチンゲールの言葉に「たった一人でもよいから、なんでも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたら、どんなにありがたいことだろう」というものが残されています。
この言葉も人の心とか体が癒えていく上で他者との良質な関係性、共感的理解ということがどれほど大切かを物語っています。
またこれに因んで、もう一つ思い出深い話があります。
それは以前私がある精神科医の講演会に参加したとき、そこで忘れられない言葉に出会いました。それは「心の病気は話すことで、ほぼ治療になる」というものでした。
それまで「こころの問題」というのは目に見えませんし、個人個人それぞれの病気がみんなユニークであるために、対処法も確立しにくいものだというイメージをつよく持っていました。そのうえ下手をすれば治療をするつもりがかえってクライエントの傷を深くしかねない、そういう非常に繊細かつ危険な面もあります。
それが「話せば、治っていくのだ」という非常にシンプルな理論(?)を臨床経験の豊富な精神科の先生の口から聴けたことは当時の自分にとって貴重な体験だったと今でも思います。
それだけに、なおのこと心の問題に向き合う治療者は相手に安心感を持って何でも話してもらえるように常に自らを内省し人間性を磨き続けることは当然の義務と言えるでしょう。
またそれ以上にクライエントさんも本当に自分にぴったりと合う、何でも話せそうな治療者や環境を妥協することなく探されることが大事だと思います。
矛盾の中にも生きる意義
来院当初にうつ病と診断されて大変苦しい思いを訴えておられた方が、しばらく通っているうちに気分が大分楽になり、「お陰様でよくなりました」という言葉を聞ける時はやはりうれしいものです。
その一方で最初の来院から、3ヶ月、半年、一年と経っても相変わらずっと苦しいまま、というような例も決して少なくありません。むしろ割合的にはこのようなクライエントさんの方が多い気がしています。
しかし考えてみれば、そうやって苦しい苦しいといいながらその方は何とか一日一日を生活していっているのですから、私はそのことにすごく深い意味を感じます。
また同じように「悩んでいる」、「苦しんでいる」といっても注意深く話を聞いていると、問題の焦点は微妙に動き続けていることがわかります。変わらないと言っている表面とは裏腹に、見えないところではずっと何かが動いているような雰囲気があるのです。
ここで急に穿った言い方をするかもわかりませんが、この世に生きておられる人で「苦しみ」から完全に解放されている人などきっとおられないと思います。
だけれども、生活の中でその人の視線が外の世界に向かっているときはそういう内的な苦しみや問題事は「一時的に消えて」いるのです。ところが何かの事情で目標が失われたり、人生に躓いたようなときに内面の問題にぐっと意識がフォーカスする場合があります。
こういうときに今まで顕在化していなかった悩みの部分が浮かび上がって来やすいのです。つまり、急に精神の病になったように思われるかも知れませんが、実はその人の知らない間に心の影のところでは「問題」が育っていた、とも言えそうです。
このような巨視的な視点に立って考えてみると、うつ状態というのはそれ自体が心の中に隠れていた問題が顕在化し、バランスを取り戻そうとする治癒活動である、と言えそうな気もしてきます。
つまりその人が今、悩んだり苦しんだりすること自体にその後の人生を豊かに拓いていく過程として、大きな意味があるのではないでしょうか。
心は他者の心を通じて知ることができる
ところが、ここで又むずかしいのは、「だったらそんなのは相手にしないで、放っておいたらいいではないですか」とはいかないことです。
実際にそういう見えない心のストレスと戦いつづけることに耐えかねて、生きていけなくなる方が今の日本には大勢おられるわけですから‥。「放っておいていい」などとはとても言えないはずです。
こういうときにこそ、そのぐしゃぐしゃに絡み合っている心の中の葛藤に一緒に向き合ってくれる人の存在が大切になってきます。
何故なら「人間の心」というのは独りでは捉えきれないものだからです。自分の心というものは他者の心というスクリーンに映し出されることで、はじめてはっきりしてくる面があります。
こんな場合によく「カウンセラーはクライエントの心を映す鏡になれ」などという言葉が用いられますが、大事なことはその鏡には血が通ってなければならない、ということです。
治療者となるはずの人間が、クライエントの言葉をただ冷たく跳ね返すだけの無機物になってしまっては、豊かな治癒活動は起こり得ません。先に述べた内容の繰り返しになりますが、だからこそ温かな「関係性」ということが求められるのです。
信頼できる他者との深い関わりの中ではじめて、心は変化と成長を引き起こすことができます。そういう温かな関係性の中にしばらく身を置いてみることで、苦しみと同時に楽しみや歓びがないまぜになっていることがわかることがあります。
「治った、治らない」という二分法の中にある間は事態はなかなか変わりません。そのどちらでもない「今」を歩きはじめるという、第三の道が見えたときにその人は長い心の旅路を通じてひとつ高次の自我へと成長したのだ、と考えることができます。
病気を経過することで生命は活性化し、惰性的に固着しかけた人生に新たな風を吹き込む、という考え方を私は野口整体とユング心理学の両方から学びました。でも、そうした学びに実感を持たせてくれたのはやはり日々の臨床でお会いするクライエントのみなさんです。
このように考えていくと、「うつ」はその人の中に隠されたつよさを浮き立たせてくれる、無意識の光であるような気がします。そしてそのような無量の光が誰の中にもあることを信じて、目の前に現れた人の心身に真っ直ぐ向き合っていくことが、人間における治療の原型である、と私は思っています。