せい氣院

理解と共感が生む力

「治す」のか「治る」のか

カール・ロジャーズの用いた来談者中心療法とは治療の主体をカウンセラー(援助者)ではなくクライエント(患者)に置くことで、その心の自発性を頼りに治癒と成長の機会をもたらそうという考え方です。

彼の手法の要点をごく簡潔にいえば、相手に対して「心から」の「関心」と「共感」を持って、ひたすら一所懸命に話を聞くということです。

そしてロジャーズは「それさえ」できればカンセリングは成功する、とまで言っています。

ここだけ読むと「世の中には自殺をするほど悩む人が大勢いるのに、たったそれだけで患者が問題から解放されるはずがない」と思われる方もいると思います。

しかし現実的に考えてみると、先に挙げた3つの条件を全てクリアしながら人の話を最後まで聞き続けるのは大変むずかしいことがわかります。

相手に関心を持って話を聞いて「はい、はい、」と共感をするフリはできても、「心から」という条件がつくとハードルは急に高くなります。

もしも本当にそれを可能にするためには、聞き手にはさまざまな人の価値観や考え方を受容できるだけの十分な心の広さが必要です。また、子供からお年寄り、男性も女性も区別なく共感できるだけの、豊な愛情と情緒が求められるはずです。

例えばここに「もう死にたくなりました」というクライエントが現れたとします。そんな場合に、カウンセラーだからといって「そうですか、あなたのような辛い立場ならそれも仕方ありませんね…」と共感して肯定している訳にはいきません。

かといって「それはいけません!」などと慌てて否定すれば、相手の切実な思いから離れた「他人からのアドバイス」になってしまいます。

アドバイスがいけない、効果がない、ということは言いませんが、それこそ「それはよくない」、「いけません」の一言で相手の心を変えられるなら、世の中にある沢山のいざこざはすぐにみんな消えてなくなるはずなのです。

本当に聞いているのか

先ほどのロジャーズの理論に当てはめて考えるなら、「死にたいほど苦しい」という相手の思いを受け止め、自分に落とし込んで深く味わいながらも、「でもやっぱり死んではいけない、どんなに苦しくても生きていかなければ…」という自分自身の思いも捨てずに、矛盾する両方の心を同時に生かして対話を続けていかなければならないのです。

また別な例を挙げると、「あんな親は死んだ方がましだ!」などと言うクライエントが現れるかもしれません。当たり前ですが、そのような思いを無条件に肯定することもできません。

とは言え、他人には全く理解できないような突飛な発言でも、当人からすればそのような思いに至る正当な理由やいきさつ、背景が必ずあるはずなのです。

聞き手はそこを汲んで「…確かにそのように思ったとしても無理もない」と共感的に理解しながら、やはり「社会的にも道義的にも許されないことである」という一般的な枠組みもしっかりと生きていなければなりません。

果たしてこのような話の聞き方ができる人がそこにここにもいるでしょうか。

多くの場合は話し手と一緒に深い葛藤の落ち込むのを避けるために、もっと手前の段階で「そんなことはだめだよ」と諭して打ち切ったり、「それでも頑張ろう」などと励まして「その場(相手と同じ心の立ち位置)」から逃げてしまうことの方がずっと多いように思うのです。

話を聞く、聞き続ける、ということを突き詰めていくとその言葉の背景にあるその人の人生観や、悩みの根源にある漠とした心の偏りや矛盾、葛藤を一緒に向き合っていくことになりかねないのです。

実はこのようなことを多くの人が「知っている」ために、よほどの関係でもない限り日常で「本当に」話す、聞くということはあまりしないようになっているのです。

あるいは聞きながら話の内容が深まらないように無意識的に雑談に移行したり、冗談を返したりということがなされているようにも思えるのです。

2020/08/28