せい氣院

野口整体の活元運動にみる宗教的側面

野口整体は宗教か?

整体法(野口整体)はこれを身近に体験したことのない外部の人たちから「宗教のようだ」という評価を下されることがよくあります。特定の団体を組織し、その会員を対象とした体育(健康)指導を行なうという外見からそのような見解が生じるものと思われます。

さらにそのような見方を強くする要因として、活元運動という独特の体育手段の存在が考えられます。この運動様式が一般的な体操や運動療法に比べてあまりも奇態に映るため、ある種の嫌悪感と奇異の目が入り混じった形で「宗教」という評価を受けるのだと思います。

またその素地として考えられるのは現代の日本人は全般に「宗教」に対して疎遠である、もしくは過敏になっていることです。その結果、信仰や宗教についてさほど深く考えたことのない多くの方が、「いわゆる宗教」というものについて漠然とした忌避の念を抱いているように思われるのです。

まずはっきり申し上げられるのは創始者 故野口晴哉先生の創られた整体協会は「公益社団法人」であって「宗教法人」ではありません。これだけで最初の問いに対する答えは足りると思います。

それ以上のことは個人の価値観や宗教観に委ねるべきかもしれませんが、かといって「野口整体」が科学的な論理性やエビデンスに乏しい低次元の民間療法として広く浅く認知されることは、その真意を知る者にとって喜ばしいことではありません。

歴史も決して古いとは言えませんが、誕生から半世紀を優に越えていますからそれほど浅くもないでしょう。加えてその高度に洗練された生命倫理に基づいて伝承されてきた思想と技術、そしてその社会的有用性は一部の有識者層に高い評価を得ているのも事実です。

このような立場にある「野口整体」あるいはそこから派生した「整体」という概念を、(俗にいう)「宗教」という名の思考停止に追いやることが賢明な態度でないことは上の考察からもおわかりいただけるはずです。

宗教とは何を指しているのか

そもそも「宗教とは何なのか?」という問い事態が非常に可動域の広い柔軟な解答を誘うものであり、世界に数多ある信仰や宗派の数だけその定義も別れるといっていいでしょう。これに決着を付けようとしたら、とてもこのようなサイトで賄いきれるものではありません。

ちなみにウィキペディアの「宗教」の項においては巻頭に次のような一節が置かれています。

宗教(しゅうきょう、英: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。(Wikipedia「宗教」より)

これも「人間の力や自然の力」をどこからどこまでとするのか、など考えようによって観念の範疇はいくらでも動揺します。

その一方で「野口整体」にも定義はないのです。こうして煎じ詰めると、定義の曖昧な2つの概念を、同質のものであるかどうかとあれこれ考えること自体、合理性に欠ける行為です。このような次元から発せられる如何なる評価にも、正当な価値が認められるはずもありません。

とはいえ巷には明らかな「誤解」が横行している面もありますし、例え科学性や客観性が曖昧なものであっても、道義的に「これは違う」ということはやはりあると思います。

これを正す意味でも、また少しでも初心の方の理解の助けになればという気持ちで、もう一歩深く進めて考えてみたいと思います。

信仰や宗教以前の力に目覚める

野口晴哉先生の著された『整体法の基礎』の中に、信仰や宗教に因んだ一節がありますので、その一部を引用いたします。

昔といっても、戦争の直後に、いろいろな新興宗教が出来たころ、宗教をやる人たちは何か不思議なことをやらないと都合が悪いのでしょう。私のところにも精神集注する術や、活元運動や愉気の方法―を習いに来ました。教えたのが良かったか悪かったか……今になってみると、その人達は外路系の体育としての活元運動をやらないし、精神集注の術としての愉気を行なわないで、それをみんな信仰のお蔭だと言って、奇跡を行なうつもりになっている。しかし活元運動も愉気もそういうものではない。私は、総ての人が持っている力、自然の動きとして、受け容れて欲しかったのです。そのように受け容れられていたならば、こんなに病人が多くはなかったと思うのです。実際、信仰や、徳や修行でやれるようになったなどというために、誰れも自分の裡なる力に目覚めない。活元運動は、自分の裡なる力に目覚めて、はじめて自分のものになるのです。それを、みんな偉い人の徳の所為や、信仰の所為にされてしまうことは大変迷惑で、その当時、教えたことを、今になってがっかりしています。
(野口晴哉著『整体法の基礎』全生社 pp.56-57 太字は引用者)

このように当時から「宗教家」が(当時)新進気鋭の整体法に目を付けて、その手法を習いに来ていたことがわかります。やはり活動の初期から宗教「的」な何かを醸し出してはいたのでしょう。

ところが開祖である野口先生はその様な態度に難色を示していたこともここに記されています。一見宗教的に見えても、「そのような宗教」に堕ちてしまうことを嫌悪しておられたのです。

ところで「活元運動は、自分の裡なる力に目覚めて、はじめて自分のものになる」とありますが、この自分の裡なる力に信を置くという点こそが本当の意味で宗教が担うべき領域ではないか、と私は思うのです。

私は仏教の中でも禅宗はこれに近い宗風を備えていると思うのです。禅とは「人間的な価値観やはからいを超えた、絶対現在としての今の〈いのち〉に目覚めること」です。これによって人間というのは、どんな状況にあっても救われるように出来ているのです。

野口先生という方は『臨済録』や『碧巌録』といった禅仏教の経論を幼少期から愛読されていましたので、このような思想が自然と身についていたものと思われます。

全人類を分け隔てなく救うべき宗教とは、本来このような姿でなければならないはずです。

念のため付け加えて置きますと、私は禅宗以外の宗教を否定するつもりは全くありません。それ以前に世界中にある宗教をそれほど知っている訳でもありませんし、また多少知見のあるいくつかの宗教について考えてみても、決して禅宗の教義と衝突したり相克するようなことにはならないのです。

少なくとも二千年以上の風雪に絶えてきた大宗教は、最初から盤石な普遍性と一体になっているのです。

よく考えてみれば、宗教の「宗」という字は「根本とするもの。おおもと。」という意味です。この世界の根本とは、すなわち〈いのち〉とも言い換えることができるでしょう。これを明らかにするための教え、という意味では野口整体も上に表したような真の宗教たり得る存在であると私は思っています。

実際のところどんなにすばらしい信仰や宗教であっても、それらに人を救っていく力を持たせられるか否かは、個人の教養の高さや信仰の純粋性、精神の高潔さ等にかかっているのです。整体法があなたにとっての真の宗教となり得るかどうかは、自分自身で実践し見極める意外にありません。

「野口整体とは、宗教とは何か?」また「生きるとは何なのか?」、そんな妄想や雑念をかなぐり捨てて、自分自身の生命を今この瞬間に懸けて、全力で生きることが整体法の智慧なのです。

一切の依存を排除し、力強く自己を肯定して生きる道を示す教えですから、本来の意義を理解したうえで「宗教的」と評されるとしたらこれほど的確なものはないでしょう。

これまで活元運動を励行し人にも勧めてきた私からすれば、少なくともこれが自分にとって「間違いのない方法」であると確信しています。これから始めようとする方には、いつ誰が発したかもわからない無責任な評価に惑わされずに、正しい実践を請う次第です。