病気は体の自然良能
2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。
10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。
それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。
考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。
一見して高度な合理性を示す科学的医療の威力に目がくらんで、科学を絶対的に信じている人が大半の時代だったのだ。
その時にいち早く西洋医療の限界と問題点を指摘した先見性はもっと評価されるべきだと思う。
現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も場所によっては受け入れられるようにはなってきた。
ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非と善悪の間でうろうろしてしまう。
病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の中から一部を切り出して悪しと見ているだけである。
だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自覚できる時が必ず来る。
科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。
こういう視点はそもそも東洋では昔からあるもので、例えば禅という世界がまずそうだし、天行健を冒頭に掲げる「易」もはるか昔から同じことを言っている。
是非、善悪、上下、苦楽といった二元的な対立概念はよくみればそれを見る人が与えた評価なのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。
そういう不確実な考え方をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。
法然の南無阿弥陀仏とか親鸞の自然法爾というのはこれだろう。キリスト教の方では「神のみ心のままに」というきれいな言葉があるけれども、キリストの宗教者としての強さをよく表していると思う。
人間には最初から拠り所などない。
もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開するいのちだけである。
頭の中を虚しくポカンとさせて、今を十全に生きようというのが整体法の説いた道である。
良し悪しを思う心がやめば、病気も一つの健康の働きであり、体の自然良能であることがわかる。
健全な動きの中にある一つの状態を人間が切り出して、「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。
そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法が事実に即した生命観であり不易のものであることが実感できる。
とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻である。風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。
この辺りのところが整体法の精髄といっていいのかもしれない。
ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。
後者のような人を「常識の豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。
考えてみれば信仰とかドグマというのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。
キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか受諾されないからに他ならない。
『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んだもので、その功徳は計り知れない。
折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。一冊の本の中に整体の技術としての潜在意識教育が盛り込まれているのだ。