たった一つの言葉
言葉は一つ こころは複雑
言葉は心を伝える上でとても有効な手段ですが、〈こころ〉の世界というのは大変広大かつ深淵でもあるためにいくら言葉を費やしてもその全てが伝わるか、というと必ずしもそうではありません。
このことをより具体的なイメージで理解するために、〈こころ〉を一枚の絵画に喩えてみましょう。もしくは好きな交響曲でも構いません。
きっとそこには、作家が或る「何か」を表現するために、無数の色で描かれた線や形が置かれているはずです。音楽ならば一曲の中にいろいろな音色やメロディ、緩急、強弱、間、などが意味を持って配置されているはずです。
これらと同じように、人間の心の中はいろいろな思いや考え、記憶などが同時に混在しており、決して一色などではありませんし、単音でもありません。でも言葉にして表現する時には「悲しい」とか「悔しい」とか「幸せ」などというように、たいていはその中の一つ、断片なのです。
つまり絵画でいえば一本の赤い線だとか、青い面のところだけを抽出してきたようなものです。音楽で言えば一斉に出ている音の中のクラリネットの「ド」が鳴っていた、といっているようなものです。このような断片を拾い集めて一つの絵画や音楽が醸し出す全体の雰囲気や情感までを真に味わうことはできないはずです。
しかし私たちは相手の言ったたった一言をとらえて、それが心の全てだと思ってしまいがちです。例えば、子供が「あのおもちゃを買って欲しい」などと言った場合、「本当に」おもちゃが欲しいのかというとそうとは限りません。
その証拠に買ってあげてもまたすぐに別のものを欲しがったりします。そうかと思うと、一本の棒きれとかゴムボールのようなものでも、お母さんとか友達と一緒だと次から次へとアイデアを出していつまでも遊んでいたりするのです。
そうすると「おもちゃを買って欲しい」という言葉を額面通りに受け取る訳にはいかなくなります。「おもちゃを買って」という言葉の後ろには「退屈だ」とか「寂しいから遊んで欲しい…」という心が隠れているのかも知れません。または、そのおもちゃを使ってお兄ちゃんとか友だちと遊びたいのかも知れません。
あるいは、ある人が「好きだ」とか「嫌いだ」と言っても、その好きだというのが「あなたはまぁ、いい人ね」という場合もあるし、「嫌い」と言ったって、それを何度も繰り返すようなら好きだという気持ちに勢いがありすぎたのかもわかりません。
ただ人間の厄介なところは、そう言っている内に当人まで自分の言葉に酔って「そうだ」と思い込んだりするのです。
そうすると前項の例にも書いたように、クライエントが仮に「もう死にたいです…」などと言った場合にも、それをカウンセラーのところまで一所懸命訪ねてきてわざわざそう訴える以上はやはり「生きていたい」という思いがどこかにあるのかも知れません。
あるいは「死にたいくらいに悩んでいる」というべきところを、落ち着いて表現するだけの余裕がなかったのかも知れません。また、もしかしたら、死にたいと言ったら目の前のカウンセラーがもっと真剣になって自分のことを直接的に助けてくれるかも知れない、と無意識に考えてそのような言葉が飛び出したのかも知れないのです。
聞き続けるとどうなるのか
このようなことを考えていくと、話を聞き続けていくことで何が起こってくるかが想像できると思います。
心が静まった時にようやく出てきたたった一つの言葉に対して、それは良い、とか悪いなどという批評を加えずに「フン、フン、…はい、はい、…」とひたすら受け入れて聞いていくと、必ず次の言葉がまた表現されていくのです。そしてそのまた次の一つ、と続いていくとやがて今まで自分の中で鳴っていながら気がつかなかったさまざまな心の音が繋がってきて、いろいろなことに気が付いていくのです。
もっとも、これも今ここに書いたほど簡単な作業ではありません。聞く側も前項で書いたロジャーズの聞くための「3つの条件」を満たさなければなりませんし、話す方も自分の中にある聞いてはいけない声や、聞きたくない声の周辺の事柄に関しては相当慎重になり、「そこ」に辿り着くまでにかなりの歳月を要することも珍しくないのです。
しかしこのようにして自分の意志で話し、自分自身で出会っていく言葉の数々によって、今まで切れ切れに分断されていた自分の心が徐々に統合されていく可能性が生まれてくるのです。
これこそがカウンセリングに秘められた「力」と言ってもいいかも知れません。
今まで自分だけでは承認し難かった、言わば心の影の部分に陽が当たることで「死にたい」と思っていた中にも「やっぱり生きていたい…」という心が混ざってきたり、やがては「…考えてみれば生きているということは、そもそもが苦しいことなのかもしれない…」などと自分なりの哲学や人生観(宗教観)が育っていくようなことまで生じてくるのです。
あるいは「あんな親ならいなかった方がまし…」と思っていたものが、カウンセリングを受けながら自分の学費や家賃を負担してきた親の立場を考えるだけの心の余裕が生まれてきて、確かによくないところもあるけれど一人の人間的には立派な面やいいところもある…、などと自分の中の葛藤がより活性化していったりもするのです。
この様に考えていくと、「聞く」という行為に秘められた恐るべき(?)力に気づかれるのではないでしょうか。もちろんこれはプロの話ですが、ある意味でカウセリングというのは劇薬に近い働きもするのです。
タイミングによっては「苦しみを取り除く」どころか今まで薄めて誤魔化していた葛藤が濃縮され、他者や外的事象に投げかけていた問題を「自分のこと」として向き合わなければならなくなる、という様なことまで起こってきます。
しかしこれこそがクライエントが乗り越えねばらない問題の根源でもあります。どれほどの時間や労力を費やしたとしても、自分の中に潜み続ける「たった一つの声」に出会うためにカウンセリングは存在し行われている、といっても過言ではないと思うのです。
2020/08/28