せい氣院

カウンセラーの役割

共に歩む人

一般にカウンセラーという仕事は、ともすればアドバイザーやコーチなどと明確な区別がつきにくく、混同されやすい面があります。

例えばクライエントがある悩みを持って来談された場合に、「それならこうすればいい」とか、「それはやめた方がいい」などと的確な指示を与えて、問題を回避させたり悩みを解消させるものだと考えられがちなのです。

しかしこの様な方法に頼っている限り、クライエントの成長や自立は先送りにされる可能性が考えられます。

そこでカウンセラーとして望ましい態度は、人がある悩みを抱えて来談されたときに慌てて「どうにかしよう」とする前に、まず「そこにどういう意味があるのか」を落ち着いて考える息の深さを持っている、ということです。

つまり「〈悩み〉とは何か」ということを、一般の人とは違う次元で考えることができる人であることが望ましいと思うのです。

人は常に何らかの悩みを持ち、生きている間に悩みから解放される、とうことはまずないのかもしれません。

しかしながら「悩み方の質」という点においては、より高次元なものへと成長していける可能性を誰もが持っているのではないか、と考えられるのです。

そのためには目の前の問題に向き合って、そのことに自分が今どのように処したらいいのかを考え、自分の責任で答えを導き出さなければなりません。

いつか迷いや煩悶を振り捨てて「問題に正面からぶつかっていく」時に、はじめてそれを乗り越える可能性も生じてくるというものです。

一定期間特定のカウンセラーにつくということは、言わばこうした人生の悪路難路を回避するためと言うよりも、当然引き受けるべき苦しみを共感共有しながら、これから進むべき道を共に開拓していく同行の士と考えるのが適当であると思います。

これに近いイメージの例を挙げると、四国の八十八箇所の礼所を巡る「お遍路」がわかりやすいのではないかと思います。

お遍路を行く人は「同行二人」と書かれた編み笠をかぶり、自分と共に遍照金剛(空海)が歩んでいる心で巡礼を続けていくのです。

あるいはヒマラヤの登山者はシェルパと呼ばれる原住民によって、ガイドをはじめ、さまざまな物的・心的支援を受けながら登頂を目指し、生還を期するのです。

はじめにも書きましたが、カウンセラーという仕事はアドバイザーやコーチというよりも、むしろ上に挙げたような立場の人たちに近いように思うのです。

そのためにはクライエントよりも先んじて自分なりの心の旅路を経験し、そのような自身の経験を通じて他者の道をある程度照らすことができる力量を持った人物でなければなりません。

心理療法というのは落ち着いた空間で椅子に座って行われますが、ともすれば命も関わる危険な作業なのです。登山者を案内するシェルパに力がなければ、手助けをするつもりが「遭難者がもう一人増える(クライエントと一緒に心の闇に落ち込んでいく)」ことにもなりかねません。

これとは逆にどれほど立派な人が同行したとしても、自分の道を歩むためには自分の足を自分の意志で一歩一歩前に進めていくより他ないのです。

カウンセラーは「そのこと」の難しさや危険性を体験的に熟知した上で、目の前のクライエントと歩調を合わせながら、その時その場に応じた役に立つ方法が見つけられるような自在性も要求されるのです。

「役に立つ」とはどういうことか

カウンセリングについてだいぶ長く書いて参りましたが、ここまで順にお読みいただくと一般的なイメージとは少し違ったカウセリング像が浮かんできたのではないでしょうか。

ただし「カウンセリンとは何か」の項目で書きました通り、このサイトに記したものは世の中にたくさんあるカウンセリングの中のごく一部であることを覚えておいてください。

ぐっと本質的なことを言えば「カウンセリングの定義」などということを考え出すと、一体どれが正しいカウンセリングなのか?という議論の方が先立って、目の前のクライエントの「役に立つ」ということがおろそかになる可能性もあるわけです。

もっとも肝心なことは、カウンセラーの取った行動が実質的にクライエントの役に立ったかどうか、であることを忘れてはなりません。

この「役に立ったか」ということをさまざまな学説や多くの臨床記録から考えて行ったときに、聞き手がいろいろな指示を与えて行動させた時よりもクライエントの自主性や自己治癒の力を信じてひたすら待ち続けた場合に、良い結果につながることが多かった、と認められている訳です。

人間の生活、あるいは生きた人間というものは大変複雑であるために、援助者が良かれと思ってやったことが結果的に望んだ効果につながらなかったり、場合によっては以前よりも不幸な事態を招くこともなくはないのです。

ここでは一つひとつ事例を挙げることはしませんが、「人助け」に関して上記と似たような経験をされた方はきっとおられると思います。

このような観点を踏まえつつ「本当に困っている人の役にたつにはどうしたらいいか?」を深く考えていくと、だんだんと「うかつな」手出しはしづらくなっていくるものです。

そこで前項まで述べてきたように、クライエントの話をひたすら「聞く」という、一見して受動的でありながら、意外な効果をあげる方法へと心理療法が流れついていったのです。

ひたすら受け身になって話を聞いていく、というのは一見して頼りない方法ではありますが、これを続けていくことでクライエントの心の自由度はじわじわと広がっていきます。

これによってそれまで一つの価値観や一面的な見方、考え方に凝り固まっていた思考の枠が広げられ、自分で作り出した行き詰まりが徐々に打開される道がひらけていくのです。

こう聞いていくとカウンセリングがさも素晴らしいことの様に思えますが、もちろん「いいこと」ばかりではありません。

自由度が広がる、ということはある意味では不安定になる、ということと同義でもあります。その結果クライエントは人為的に「うつ」やノイローゼになった、と思える様な状態になることもあるのです。

この不安定な状態に陥りながらも、後退することなく悩みをより高次元のものへと引き揚げ、精神的成長、人格陶冶への道を歩み続けるのを助けるのがカウンセラーの役割と考えて良いように思います。

つまりここでいう「役に立つ」とは、「相手の成長を助ける」ということにつながるものでなければならないのです。そのために目の前の悩みを深め、葛藤を鮮明にし、これを乗り越える力を養成することがその根本義と言えるでしょう。

そのために助言が有効だと考えるなら助言もすればいいでしょうし、実質的な手助けが今はどうしても必要だとすれば、しなければなりません。

ただし基本的には治っていくのも、乗り越えていくのもクライエントに内在する力(可能性)によるものであることを、治療に携わる者は忘れてはならないと思います。

このように考えていくと、相手の中の可能性に耳を傾けてひたすら話を「聞く」ということが非常に重要であり、かつ汎用性の高い方法であることが理解されるのではないでしょうか。

2020/08/31