せい氣院

病気とは「抑圧」された感情を解放する力

近年は一般医療の世界においても「体の病気の中には心因性のものが多く含まれている」という見方が徐々に認められてきていますが、心と体を同一のものとして見る整体法の立場から言えばむしろ、心因から切り離されて存在する身体現象というものは皆無なのです。

心と体は「同じもの」を指している

例えば坂道を駆け上がれば苦しくなりますし、温泉に入れば気持ちが良いものです。この時に「苦しい」とか「気持ちが良い」といっているものは「体」なのか「心」なのか、などと考えるのは大変おかしなことです。

恥ずかしくて顔が赤くなるのも、怒って血圧が上がるのも、みんな心因でありまた身因でもある、というのが生きている人間の実体です。

顔が赤くなってもしばらくすれば恥ずかしさが消えていきますし、血圧が上がることによって怒りの情動も鎮まるのです。

泣いてしまえばもう悲しくなくなり、笑った後ではもうおかしくはありません。

このように心と体が一体になって動いていれば、全ての感情は消化され病気になる必要はないのです。

病気の時、人は思考が優位になり心と体が切り離されている

病気の本来の目的

ところが病気に発展していった場合状況はもっと複雑です。人間には見栄や恥あるいは社会的制約など、その他もろもろの原因で心の向くままに身体が動かないことが実に多くあります。

こうした制約は少しであれば問題ありませんが、自然の感情に対して過度な抑制がかかってくるとそこに病気の必要性が生じてきます。

こうして抑えた感情エネルギーは体を凝固させますが、鬱積した感情でパンクしてしまわないように生きた人間にはちゃんと安全弁が付いています。それが病気です。

風邪を引くなどして熱が上がれば体は弾力を取り戻します。また下痢なども体をゆるませる反応の一つです。

ですが現代を生きる多くの人は「薬」でこれらの反応をみんな止めてしまいますから、身体の回復要求が充分満たされずに終わってしまい、体が自然に行っている治癒の過程が中断されてしまうことが多いのです。

病気の本来の目的というのは身体を破壊するようなものではなく、そのほとんどが生命の自浄作用であり、身体のバランスを取り戻そうとする治癒的な働きとみなすことができます。

抑え込んだ心が痛みの原因 - エリザベートの例 

精神分析という学問分野を開拓したフロイトの患者に次のような症例があります。

エリザベート(仮)というこの女性患者は原因不明の両脚の痛みを訴えてフロイトのもとを訪れました。

フロイトが一年ほど分析を行なっていく中で、エリザベートには姉がおり夫に対して好意を持っているということが明らかになっていきます。

実はこのお姉さんはエリザベートが両脚の痛みを訴える少しまえに病死しており、そのことで彼女が「これで私はお義兄さん(姉の夫)と結婚ができる」とふいに思った、ということを思い出していきます。

しかし、このような不謹慎な考えは彼女にとって承認しがたいものであったために、すぐに「抑圧」したのだ、ということまでがだんだんと自覚されてきたのです。

この一連の心の動きがすべて思い出され、フロイトに話し彼女の意識でも捉えられた後で、ほどなく脚の痛みは消えた、と言われています。

「意識化」による体の症状の消失

つまりエリザベートの「両脚の痛み」は大本である「心の葛藤(苦しみ)」の代償だったのではないか、という考えが浮かびます。

こうして聞くと多くの方はこれはレアケースで、自分とは関係のない特殊な話だと思われるかも知れません。

しかし人間の身体をレントゲンや体温、血圧というように分解しないで、全体として見ていくと、一定の割で「症状」と「心の動き」とのつながりを感じさせる症例に出会います。

風邪のような内科的症状から打撲のような外傷まで、身体に起こったことで心が関与していないものは一つもありません。

身体症状の治癒にともなって、無意識層に抑圧された感情が意識化されることは当院の臨床でもしばしば見受けられることです。

しかしこれは科学的に第三者に実証することはできないものであることを忘れてはなりません。心の活動と体の変化に何か関係がありそうだ、ということまでは言えますがだからといって「当人が意識化したから身体的症状が消えたのだ」という考えは治療者の仮説や自己満足を満たすために患者を利用することにつながりかねないからです。

しかしながら事実の方かいうと抑圧された感情の意識化は、身体症状の消失と何等かの関係があると考えるのが自然かもしれません。当院で「気づき」のプロセスを何より大事にしているのはこのためです。

治療は「自由で保護された環境」の中で

上の例に引いたような「抑圧」は日常生活のあらゆる条件下で起こります。

先ほどの例のように、自分自身が受け入れがたい感情であるという場合もありますし、ある環境(社会規範など)においてゆるされない思いや思考が抑圧されることもあります。

たとえば戦時中の日本では「男は泣いたり笑ったりするものではない」などと思われていました。そうすると、そのような感情は表現化を阻まれ、その結果無意識層に抑え込まざるを得なくなります。

しかし問題となるのは「抑え込んだ」という意識が当人にはない場合に限ります。悔しさでもおかしさでも怒りでも劣等感でも、本人が自覚できてているものはそれほど体に影響されません。

自分でも抑えたことが自覚されない感情が再び「浮かび上がってくる」ためにはどのような思いでも受容してもらえそうだ、という充分に保護されて自由な空間が必要です。

子供用の心理療法としてよく行われる遊戯療法(プレイセラピー)などは、ほぼこの仕組みのみに頼って治療を行なう手法と言えます。「ここならどんなことでも許される」という「場(雰囲気)」を提供することで、子供の創造的な活動を擁護して身体上の疾患のみならず、夜尿や盗癖といった行動までを解消していこうと考えられています。

このような「場」という条件の中には当然それを提供する治療者(セラピスト)も含まれます。人対人の中にある種の信頼関係が必要ですから、「場」ができあがるまでに一定の時間を要することもあります。

クライエントにとって快適な環境が充分に配慮・整備されることで徐々に回復要求が高まり、自らの力で癒えていくことができると考えられています。

本来の治癒は苦しみを伴う

この時に気を付けなければいけないのは、治癒には往々にして「苦しみが伴う」ということです。

そもそも病気の実体が、受けとめきれない負の感情が凝固してできたもの仮定している以上、これが治癒に向かって動き出すということはその凝固した感情を改めて体験し始める動きが出てくることを意味します。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で、それまで何でもなかった人が自宅に帰ってから泣いたり、もともとあった気分障害が余計に悪化したりするのはこのためです。

人間が本当に「治る」ときには、そこに「苦しみ」を伴わないものはないのだ、とも言えそうです。

繰り返しますがこの時に非常に重要なのが治療者を含む「場」の力です。これが完備されることで自然治癒は100%に近い形で表出し、身体は自然のリズムで回復していきます。

これとともに無意識の中に溜まった未消化の感情が掃除され、顕在意識をおびやかすような要素が解消されていきます。

ちなみに潜在意識に抑圧された感情や余計な観念がなくなり、クリアなった状態のことを野口整体では「天心」と呼んでいます。

この時身体全体の動きは本来の自然性を取り戻し、「整体」に至ると考えられています。

病気というものは「痛ければ痛い、苦しければ苦しい」という自然の動きを乱すことなく、あるがまま、ないがままに経過させていくことで全心身のバランスを整える力として活用することができます。

そして整体ではこうした身体のバランス作用としてある病気のはたらきを活用して本来あるべき状態へ導こうと考えています。

このようにして自然の流れに順じて「治った」ときには、自然の流れに逆らって「治された」ものにはない快感があります。

2022/10/4

治癒のプロセス