自我と自己
自我と自己という言葉は日常でも使われますが、心理学の世界においては一般とは少し違った意味で用いらています。また同じ心理学の世界でも学派によって微妙にニュアンスが変わることもありますので、ここでは主にユング派にしぼって簡単に用語の説明をいたします。
自我とは
ユング心理学において「自我」と言った場合、それは「自分で意識できるこころの領域」を指します。たとえば日常会話の中で「ぼく」とか「わたし」などというとき、その「わたし」とはおよそ自我のことを指しています。
人は生まれたときにはまだ「ぼく」や「わたし」という概念を持ち合わせていません。しかし幼年期から思春期、青年期と成長するにしたがい、徐々に外の世界に適応していくことでそのひと独自の自我が作られていきます。
そうして自我はある種の統一された価値体系によって組み上げあられ、個人として確立した「人格」を形成していきます。それは例えば「私は女性です」とか、「○○社の社員です」などというようないくつかの観念として認識されます。こうした観念はみんな自我の中に含まれていて、人は自我という窓を通して外界や無意識とやり取りをすることができるといえます。
つまり自我があることで人は自分の要求を主張したり、他者の訴えに耳を傾けたり、あるいは外界からの刺激に応じて適切な反応ができるようになっていくと考えることができます。
しかし人間には自分の意思に反して、その場で言うべきでないことを突然口走ってしまったり、大切なものをうっかり失くしたり壊したりしてしまうこともよくあります。
一定の統合性をもつはずの自我が不意にその安定性を失って間違いを起こすということから、人間のこころの中には「自我」だけでは統御しきれない(無意識の)領域がある、という発想が生まれました。
フロイトのとらえた無意識
フロイトという心理学者は、先に挙げたような人がときおり起こす失錯行為に着目して、まるで一人のこころの中にもう一人別の人間が住んでいるようだと表現しました。そしてそこには単なる偶然性を超えた、何らかの合理的なメカニズムを見い出せないか、と考えていきました。
つまり「つい」とか「思わず」といった形で、自我をとび越すように現れてくる不意の動きをよく観察することで、その人の意識できない部分である無意識の内情について分析し、問題があれば「意識化」を促すことで解消していこうと試みたのです。
こうした洞察を通じてこころの問題を明らかにし、自我をより高次の安定性へと導く(病的状態を治癒させる)ことができると考え、人間のこころの未知の世界へと取り組んでいきました。
日本人を含めた多くの東洋人にとってこうした「無意識」は主に宗教行為などを通じて古くから馴染み深いものでしたが、中世・近代以降理性的な自我を重んじてきた西洋においては、自分で把握しきれないこころの領域があることをフロイトが示したことは大きなセンセーションを呼び、発表当初は同氏に対して奇異と批判の目が注がれたといわれます。
フロイトのとらえた無意識とは、既存の自我にとって都合の悪い感情や過去に体験した記憶を抑圧しておくための、個人的なこころの蔵(くら)のようなものにすぎませんでした。
その蔵にしまい込まれた、自我にとって「不都合なもの」を明るみに出し、「意識化」することでヒステリーのような心身症的疾患を解消できると考えたのです。そして事実催眠や自由連想法といったいくつかの方法によって、一定の患者の治癒に成果を上げていました。
ユングのとらえた無意識
先の内容が示すとおり、フロイトは無意識の負の面を主に強調したと考えられます。これとは対照的に、一時期フロイトのもとで共に心理の研究に励んだユングは、無意識の負の面と同等かそれ以上に創造的な面を注視していきました。
さらに個人的な心理を研究していく過程で、人間のこころに個人を超えたより大きな領域(他者のこころや自然現象・宇宙)との連続性や共時性を見い出し、広い視野に立って無意識を活用していく道を模索していきます。
このような活動の結果、やがてユングは自分で意識できるこころの中心を自我とし、意識と無意識の両方を含んだこころ全体の中心に「自己」という概念を据えました。
自己とは世界に向かって開かれたこころ
ここでユングのいう自己という概念を理解しやすくするエピソードを一つ紹介します
それはユングが自己というものを何か具体的に見えるもので言い表すように求められた際に、「ここにおられるすべてのひと、皆さんが、私の自己です」と答えたというのです。
つまりユングの提唱する「自己」とは、他者をも含めたこころの全体であると考えられそうです。またそれだけでなく、物質をも含む全世界(宇宙)であるとも言い換えることができそうです。
この表現は仏教でいうところの、「見性」という体験によって得られる一種の統一意識にも通じるものです。それは意識による自我境界(自分と外界との境目)が一時的に崩壊して、「私=世界(※梵我一如)」という全一的な感覚を味わった結果得られる「無」の心境に似ているように思われるのです。
このようなユングの主張をよく吟味してみると、現代でしばしば耳にする「自己実現」などという言葉を考える場合に、非常に慎重になる必要があることがお解りいただけると思います。
自己実現についてはまたページを改めて書くことにして、ひとまずここではユング心理学における「自我」と「自己」の概説として以上に留めることにいたします。
なおこのページは以下の書籍を参考にしながら、自分なりの臨床経験や省察を加えて書きました。周辺の知識も含めて、より詳しくお知りになりたい方には一読をお勧めします。
- 河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館
- 同著『無意識の構造』中公新書
- C.G.ユング著『自我と無意識』(松代洋一/渡辺学)第三文明社
2020/07/27