偏り・鈍り
身体の偏り
一般によく認知されている整体で「体の歪み」と言うところを、整体法では「偏り疲労」または単に「偏り」というように表現します。
どんなに身体が曲がったり捻れていてもそれは「歪んで」いるのではなくて、その人なりの心理的事情によって一過性にその様な体勢を取っている、と観ているのです。
よって身体が偏る原因はその人の心、観念にあります。
「怒りっぽい」「涙もろい」「気落ちしやすい」...などなど、生まれた時には身に付いてなかった観念が、両親の性格や成育環境によって知らず知らずのうちにその人の心に沁みついています。
このように書くと悪いことのように聞こえますが、どのような感受性でも良い悪いという二元的な価値観で片付けてしまうのは賢明とは言えないでしょう。
どのような観念であろうとも、結果その人が日々元気で活き活きしていればいいのです。ところが、そうした観念の中には生命力を屈折させ、本来持っているはずの力を全力発揮することを妨げるものが少なくありません。
偏りを修正するということは自分と向き合うようなもので、感受性を頼りにして今現在の自分を作ってきた生活を掘り下げていく作業です。
身体の枷(かせ)になっているような「心の偏り、しこり」に光を当て、自身の力で改めるように整えていくことが整体の核心部分なのです。
鈍り
整体では異常感を早期に知覚し、敏感に反応できる身体づくり - 身体感覚の育成を目的に取り組みを進めていきます。
「痛みや病」は敏感に身体が敏感に反応している状態。反対に鈍りは何の反応もない状態。究極は「死」と捉えます。
よく無病=健康と取り違えている方がいますが、鈍りという概念から見ると必ずしもイコールとは言えません。
過度な緊張や理性の過剰亢進により感覚が鈍り反応ができない、もしくは知覚できないということがあります。
痛みや症状が表面的には見えないため問題がないように思いますが、知らず知らずのうちに病床が育つということが少なくありません。
ずっと元気で風邪もひいたことがない、という人が突然ガンを宣告されたりすることはよくある話で、典型的な鈍りの助長が引き起こした例と言えるでしょう。
「鈍い」というと悪い印象を持ちますが、これもまた一概に良い悪いで判断できないものです。
人の心が単純ではないように、社会的なつながりの中で生活していく上で、鈍りというものに守られている部分も多くあるのです。
人の心が複雑に交差する中で、日々変化する感情を心身で受け止め、自身の力にしていくことが健康の第一歩ではないでしょうか。