影 - もう一人の私
影とは何か
わたしたちは普段の生活の中で「なぜか好きになれない」、あるいは「生理的に受け付けない」などといって、理由のわからない嫌悪感を抱く相手に出会うことがあります。
実はこのようなとき、原因が相手の外見や性格にではなく自分の心の中の「ある領域(意識にのぼらない闇の部分)」が微妙に作用して、その相手を「嫌い」という角度で映し出していることがよくあります。
そのような負の感情の元となる漠としたイメージ群のことをユング心理学では「影(シャドウ)」と名づけました。
影とは、自分の中にある受け入れがたい欲求や感受性傾向が一つの人格性を成したもののことです。
ユングの言葉によると、
「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと―たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向―を人格化したものである」(河合隼雄著『無意識の構造』中公新書 p.92)というように述べています。
影の投影
それではここで少し影の具体的な例をあげてみましょう。
例えば「男はクヨクヨ、メソメソするものではない!」と絶えず自らを叱咤激励しているような人(男性)は、女々しい態度を露呈する人を見ると無性に腹が立ってきて攻撃したくなるものです。
このような場合、俗にいう「男らしい」人格に凝り固まったために自分の中にある弱さを認め、内省するような深みのある態度が影になっている、ということができます。
または、会社で男性と同様の服装や対等な態度でバリバリ働いているキャリアウーマンなどは、これとは反対に女性という立場を利用して上手に甘えながら職場に融け込んでる人をみると「どうしてあんな幼稚な女性をみんな可愛がるのか!」などとイライラしたりします。
このように例を挙げればきりがないのですが、自分の中にある影のイメージは他人を見ることでその姿を明確に捉えることができます。
これを「影の投影(プロジェクション)」といいます。
生きられなかった半面
さて、そのような自分の中にひそむ第二の人格とも言える「影」は、わたし自身の安定的した人格や生活を脅かすだけの危険な存在なのでしょうか。
実はこの影という概念の生みの親である(元型の一つとして見つけ出した)ユングは、そのようなマイナスの見方にとどまってはいません。
影とはいってみれば、わたしの中に存在しながら今日まで生きてこられなかった自分の半面なのです。
それは意識されずに無意識層にとどまっている間は「わたし」という自我の一貫性をときには支え、ときには脅かすという気まぐれな存在となります。
しかしその無意識の層に意識の光を当て、影の正体を見極めることができれば、今まで生きてこられなかった半面を今後の人生に活かすこともできるのです。
そうすることで、より円満な人格へと発達する可能性も生まれてくるものです。影とは自分の中で使われてこなかった特性であり、よりよく生きるための可能性を含んだ貴重な存在でもあるのです。
影との対話
カウンセリングのような心理療法を行うとき、まずほとんどの人がこの「影の問題」につき当ります。
今まで自分自身の承認を得られず、心の無意識領域に追いやられていた観念と対話し、その統合をはかることは、心理療法における一貫して重要なプロセスといえるでしょう。
一般的には「円満な人格の発達」などというと自分の中の悪や負の面を徹底的に排除して、まったくの善人や聖人君子を目指すものだと思われがちです。しかしこのような一面的な人格(自我)を形成することは強い偏りを生じ、それだけ影の領域が広く濃くなることを意味します。
人間がより大きく深く成長していくためには、むしろそのような影の存在を認め積極的に対話するように交流をはかることで、バランスよく自我の中に取り入れていく態度が求められるのです。
一般に「いい年の取り方をした」などと言われる人の中には、人知れず影の問題に取り組み(苦しみ)上手にそれを乗り越えたケースを見ることができます。
影と向き合う危険性
一方でこうした影との対話にはある種の危険性をはらんでいることも知らねばならないでしょう。
それは今日まで築き上げてきた自分の人格と、そこから形成されてきた人付き合いや生活スタイルの安定を脅かすことになりかねないからです。
たとえば先ほど挙げた「男らしく」生きてきた男性が強気な経営者やスポーツの監督など精神的な指導者であった場合、自分の中にある繊細さであるとか、ときに恐怖や不安に支配されそうな心に出会ってしまうことで現在の地位を失う危険性もあるのです。
実際にはこのような「弱さの受容」をともなわない見せかけの強さは、いわば「張子の虎」のようなものなのです。そのような偏ったうわべだけの強さは不自然な力みをともない、予想外のストレスがかかったときに意外なもろさを露呈することがしばしばあります。
ですからこのような場合、真の強さを養うには自己の内面に向き合うことで獲得される円熟した人格が求められるのです。
そこで心理療法に取りかかる際にはカウンセラーもクライエントも、そのメリットと同時に、通過儀礼としての「リスク」についてもよく考える必要があると言えるでしょう。
実際にはこのような影の存在をまったく知らずに生きているとき、人生の大事な場面やいわゆる勝負所で「影になっている心」が微妙に作用して、かえって危機的状況がくり返し訪れることはよくあることです。
中年期までに大半の人が亡くなっていた明治以前の日本などはそれでも大きな問題はなかったかもしれません。しかしほとんどの人が老年の域まで生きる現代社会においては、青年期までに形成される一面的な人格だけで一生を押し通すことはほぼ不可能ともいえそうです。
遅かれ早かれ人は自分自身の影の問題に遭遇するのが、長寿社会である現代を生きる上では宿命であるように思われます。
「影の統合」と終わりなき人格陶冶の道
これまで繰り返し述べてきたように「自分の中にある影の存在を認め、統合をすることができればその後の人生を豊かに生きられる」とするならば、それは誰にとっても魅力的な話にちがいありません。
しかし一生の間に、一人の人間として「人格が完成する」などということがあるのか、ということについては慎重に考えねばならないでしょう。
現実問題として、無意識の領域から「影」を100%すくい出し、その全てを自我のなかに統合するということは生身の人間には不可能であるとも考えられます。
実際の心理臨床においては広大な無意識領域の中からごくごく少量の影をすくって、それをじっくりと時間をかけて自我のなかに少しずつ融け込ませていくようにするのが上策です。
なぜなら日常生活においても「魔が差した」などと言って、ふとした瞬間に自身の影に飲み込まれて、思い切った行動に手を染めた結果、転落人生を歩むような例が散見されるからです。
今まで生きてこられなかった「影」は常に自我の統制力が弱まる隙をねらって、その行動化と現実化を虎視眈々とねらっているかのように感じることがあります。
それは大局的には「自己実現」という壮大な本流へと通じる大道なのですが、その過程においては時に生命を危機へと追いやる危険性をもはらんでいることを知らねばならないでしょう。
全ての薬には副作用があり、適量をあやまれば死に直結するのと同じように、心理療法における「影」の役割も劇薬に相当するものと考えた方がよさそうです。
そうかといって影との対話から得られる恩恵のすべてを早々にあきらめ、一面的な生き方を選らぶならばそれは人間味に欠ける深みのない生涯となりかねません。
いずれにせよ中年期を境に人は遅かれ早かれ自分自身の生きられなかった半面に気づき、何らかの対応を求められるということは間違いないようです。
何ごとも不安や恐怖というものは「よくわからない」ということに起因するものです。孫子の兵法にある有名な言葉の「敵を知り己を知れば‥」という古語にならい、いつ訪れるかわからない影との対決に備えて少しでも自分の影について知っておくことはきっと助けになるでしょう。
しかしながら、そもそも影は自分自身で承認できないからこそ「無意識」という広大な海の中に棲んでいるのです。
一般に「自分の敵は自分」などとよく言いますが、自分自身の影とはなかなか厄介な相手であることは間違いないでしょう。しかし一方では、その背後に大きな可能性を有した親類であるとも考えられるのです。