せい氣院

治療と経過の違い

一般的な治療においては病気を身体活動の負の状態と考えて早期の解消をめざします。外傷ならば先ずその苦痛を取り除くことを考えます。

熱が高ければ下げようとし、咳や下痢ならまず止めようとします。しかしこうした行為が「身体全体においてどのような意味を持つか」を考えることは、科学的医療の臨床においてはありません。

なぜこのような態度が定着しているかと言うと、それは「科学的である」ということが「分析的である」ということとほぼ同義であるためです。

分析的に観察するということは無機物を理解するためには大変有効なのですが、一方で苦手とする分野もあります。それは有機的な物の総体としての意味や意義を考えることです。

別な角度から解説すると分析をすることによって、生きた身体あるいは個人といったものは観察者の視界から消えてしまうのです。

こうした「全体における意味」などと言ったばあい、それは世界観や宗教観といったものの領分であり、自然科学における無機的な物質の研究範囲内では思索の対象とはなりえないものです。

整体では科学とは別のパラダイム(ここでは思考の枠組みという意味)で病気を観(み)、人間を観、世界や生命を捉えようとしています。

ここにおいて病気という現象は、個人あるいは人間全体が常に調和という目的に向かって自律的に行なっている平衡作用と見做しているのです。

痛みや症状は全体からその部分だけを切り離して見ると、悪しきもの、そして一刻も早く解消すべきものと思われがちですが、少し深く考えてみればこうした働きがあってこそ、個体生命の無事は保たれている、とも考えられるのです。

体が菌やウィルスの繁殖を抑えるべくして行なっている発熱を治療と称して人為的に下げることは、菌やウィルスに加勢し自然の保護作用に基づいた経過を乱す行為に他なりません。

あるいは下痢を人為的に止めるということは、体にとって不要なもの、もしくは害となりうるものをお腹の中に抱えたまま過ごすことになります。

本来は、熱なら熱が出やすいように、下痢なら排泄がスムーズに行われるように環境を整えて体の作用を上手に支援するのが体に対する親切と考えるべきです。

こうした自然に抵抗する行為は、やがてはその抵抗した力がそのまま抵抗したものに跳ね返ってきます。このような対立的な態度ではなく、むしろ自然の力を我がものとして認め、共生しさらには同化しようというのが整体法の考え方です。

そのため整体では病気と健康は対立する概念ではありません。健康のはたらきの中に病症と回復、さらには破壊と創造が併存します。

人間を含め、生命現象を煎じ詰めていくと緊張と弛緩、あるいは動と静といった二極間の振幅に至り、最終的にははエネルギーの集中分散の波に集約されます。

病気とはそのエネルギーの集中分散という振幅の中の、ある位相のことを指しているに過ぎません(病気である、ということは同時に回復が起こっているということ)。

意識を静めて、是非善悪の観念を凝らさずに待っていればいつかその波は去り、あるべきように流れていくのです。

このような観点から心と体、そして自身の〈いのち〉に向き合いある種の礼を尽くして生活をしようというのが整体法の示す知恵でもあります。

自然から逸脱した環境が常ともいえる近代文明の社会においては、病気の自然経過などは望めないことも多々ありますが、体の持ち主の考え方一つで病症は自身の体と対話するための貴重な機会ともなりうるのです。

このように意識を静め無意識をよすがとして体の為すがままにいることは、東洋的養生の究極的な在り方とも言えます。

体という無限かつ未知の領域に対峙するとき、整体法の実践によって得られた裡なる知恵が確かな道しるべとなっていくはずです。