せい氣院

全生 - 今のいのちを生ききる

整体は正しい体を保つ為の教養です。昔は技術でした。それが体育になり、これからは教養として人間の持っている本来の能力を自覚し、発揮し、人間の全生活を潑剌とした方向に進めることであります。(野口晴哉著『風声明語2』全生社 p.37)

野口晴哉の整体法を実践するには「全生(ぜんせい)」という概念の理解がとても重要です。

これがなければ整体操法のうわべの技術だけが取り入れられ、他の手技療術との区別はつかなくなります。特に素人目にその違いを見極めるのは困難です。

確かに整体法には手技療術としての側面も認められますが、それらの技術をどのような目的の元に使うかという信念が整体指導者の中に生きていなければなりません。

ただ手で行う体の故障直しや健康補助の技術だとすれば、整体は指圧や按摩と変わりありません。整体の存在意義を示すには、やはりその技術をもって対象をいかに健全な心と生活に導くかという哲学が不可欠です。

そうした全人的、あるいは全人類的に人間生命の興隆をはかる哲理に相当するものが、「全生」思想という一つの生命観です。

「全生」という言葉は聞く人によっていろいろ解釈できそうですが、一言でいえばそれは「全力を発揮する」ということです。

それも「今、ここ」における〈いのち〉を最大限に使っていくという意味です。これを可能とするために整体を保ち、心がクリアであることを第一としています。

ここで野口整体の講義録の中から全生に関するものを抜粋して以下に引用します。

野口晴哉

やはり人間は若い頃から溌剌とエネルギーを発散して生きるように計画しなければならない。私はそういう意味で「全生」という言葉を使い、雑誌などを出してきた。これは生命を全うするというのではなくて、生命の全部をかけて現在を生きるということなのである。(野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 p.168)

野口裕介

「全生」と野口(晴哉)先生が言っていますが、それは長生きをすること、長寿ということを言っているわけではありません。全生という意味は長々と生きるという意味ではなくて、人生を精一杯生ききるということです。生きているその瞬間、その瞬間を、全力を出して生ききることだと言っておられるのです。ですから、野口先生的感覚で言えば生き方の問題なのです。
<中略>
ともかく、全生というのは、たんに長く生きることを理想とし、細々と生きるということを言っているわけではありません。私たちが生ききると言っているのは、精一杯自分の興味をもって、自発的に、力の限り、一生を生き抜くということを言っているわけです。(『月刊全生』平成11年10月号 p.11)

太字および()<>内は引用者による加筆

野口裕介氏は晴哉先生のご子息です。ここで両氏が強調されているように、全生というのは過去から現在、未来へと続く時間軸を仮定して、その上で最後まで命を全うしましょう、というものではありません。

そうではなくて、今ここにおいて無条件に元気である、活き活きしているか否か、ということを問題にしているのです。

確かに事実に則して考えれば「時間」というのは頭の中にしかないのですから、誰もが今の無垢な〈いのち〉をいただいて無心に活動している訳です。

ここで少し余談になりますが、野口晴哉先生は『臨済録』という、中国禅の一大宗派を担った臨済宗の講本を終生座右に置いて愛読していました。この『臨済録』の中には「活潑潑地(かっぱつはっち)」という表現が出てきます。

これはまさに魚が水を得た如く元気よく泳ぎ回り、水面をピチピチと跳ねていく今の〈いのち〉を表現した言葉です。「全生」はこれと同様、瞬間、瞬間に全生命を投入して生きる、という、与えられた生命に対する真面目な態度を奨励するものです。

このように無目的で捉われのない、伸びやかな生の在り方を最良として、これを実現するための道として、野口先生は自ら整体を体現し、唱導されたものと思われます。

またこれは禅仏教で説かれる「見性(けんしょう)」という体験にも通ずるものです。過去から未来を貫いて無限に存在する全き〈いのち〉を自覚して今を生き切る、という主張はどんな時代や社会であっても、また年齢や性別、民族、宗教観を飛び超えて通用する普遍のものです。

このような生命に対する敬虔な態度は、氏の独創的な思想の端的とも言える「生命に対する礼」という考え方に基盤を置いています。

体を整え潜在意識をクリアにする(天心を保つ)のも「全生する」ためであり、そのような態度がそのまま生命そのものに対する礼であると言えそうです。

2020/08/20