せい氣院

生きる上での価値観とは何か 「上昇志向の落とし穴」

「草食系」という親しみと奇異の目が入り混じったような表現が生まれて久しい。

まあそんなにガンバらなくても‥という「そのままで幸せ主義」のふんわり男子が発生した一方で、世の中には依然として上昇志向の強い肉食の男性も一定数はいる。

学校の成績から始まり、会社でも社会的立場でもひたすら上を目指すようなタイプの方がうちにも年に何回かは相談に来られる。

この手の人は仕事の勉強のみならず、何らかの瞑想的トレーニングや、ものめずらしいボディーワークを日常に取り入れるなどして自分磨きに余念がない。

その求めていることを端的に言えば、身体を特殊な方法で訓練することで、より有能になって周囲を出し抜こうというのである。

例えば丹田を鍛えれば気力や集中力が増すとか、呼吸が深くなれば動じなくなるとかそういう系統の話なのだが、現実はそう単純ではない。残念ながら人間ちょっとやそっと身体を刺戟したくらいで、人格や能力まで飛躍的に変わるものではないのである。

いや、本当はなくもないのだが、その恩恵は取り組んでいるメソッドや指導者に対する盲目的な信仰の力に依拠している場合が存外に多い。

そんな事実とはうらはらに、世の中は全般にポップでライトな手法が大流行りである。

健康・美容目的のエクササイズやボディーワークを見ればわかる通り、「一日10分で‥」というのが流行ったかと思えば、それがいつのまにやら「一日1分で‥」になり、ひどいのになると「たった〇〇秒で」などというのまで目にするようになった。

いや、これもあながちホラとは言い切れない。洗練された質の高い身体操法ならばそれも全く不可能とは言えないからだ。しかしながら巷に横行する商業ベースの手法の大半は中身のともなわない空虚なものばかりである。

あたかも水泡の如く、出たかと思えば消えていく。流行ればすたれるのが世のならいだが、当然のことながら内容の乏しいものほどすたれるのも早い。

こういうメソッドを買う方の心にも問題はあるが、提供する側の罪はもっと深い、と思う。言葉がわるくなるが、「人間」をなめているのだ。

話を戻すと「上昇志向」というものは、いってみれば特定の価値観や決められた枠組みの中で直線的に自分を高めていこうとする態度だ。

このような向上心の強い人に対して治療的に関わろうとする場合、その強い上昇志向が治癒の大きな障害になることがある。

全般に慢性病やノイローゼに悩まされている人の多くは、これまでの特定の価値観の中でがんばり過ぎて、結果的に身動きが取れず頭打ちになっているのだ。

このような人に対して治癒を援助する立場というのは、アスリートを育てるコーチのようなものとは大分ちがう。

つまり固定された単一の価値観の中で「ガンバレ、ガンバレ!」というような作業ではない。

むしろ過酷な練習によって心身共に疲労困憊の極み、ボロボロになった選手の横に寝そべって、テレビを横目に雑談でもうながしながら一時的に競技者のアイデンティティを崩壊させるのである。

いってみればその人がこれまで頑なに歩もうとしてきた単一のレールを一辺取り外し、全く新たな地平に未知の可能性を想起させようとする。その具体的な方法はどんなものでもいい。とにかく心と体の構造を一度バラバラにして再構築させることが治療という行為の根本原理である。

裏を返せば、こうした仕組みを伴わないものは治療とはいいつつも、みんな一時しのぎのまやかしと言ってもいいだろう。

先にいったような固定的な価値観にしがみ付き、ひたすら努力を繰り返しているうちは、このような自我の破壊と再生が容易にはかどらない。

そして、あまりに執拗な上昇志向の背後には無意識の劣等感が隠れているのも見逃せない。本人がこれに気づき「あるがまま」を受け入れることができたとき、はじめて世界の見え方が変わり始める。

理屈は単純なのだが、実際問題そこにはものすごく時間がかかるのである。いや、時間はかけなければならないし、時間をかけるだけの重厚さも価値もある。

心でも体でも本当の治癒には大きな苦しみがともなうもので、ゆっくりゆっくりと自我崩壊を進めていかなければ危険なことさえあるのだ。

まあともかく、政治・経済・医療と各分野が総じて頭打ち状態の現代にあっても、上昇志向の強い人への社会的需要はまだまだある。

しかし個人の生き方というのを大事にしながら一人の人間を見つめていくと、だいたい青年期の後半から中年期のどこかで、そのような強く固定された価値観は破綻を強いられるようだ。

実際は死ぬまで頑張り通す人もめずらしくはないが、そういう人は大体晩年がにぎやかになる。多くの場合は心の葛藤で味わうべき苦しみを、慢性腰痛とか癌のような身体的苦痛に転換して生きているために、最後の総決算が第九の大合唱の如き大仕事になってしまうのだ。

このような生き方は一見すると美談とか賞賛の対象になりそうな壮絶な人生にもなるので、大抵は表面上の忙しさや病気の苦しみにだけスポットが当たって「見えざる葛藤」の方はいつまでも俎上にあがらず心と歴史の「影」に埋没してしまったりする。

そうやって表面的な、外界で起こるゴタゴタの対応に終始するのか、意識を閉じて無意識の葛藤に直面していくのかは、どうも本人の意思とはあまり関係がないようにも思われる。

それはそのひと個人の、あるいは集合的無意識とも言われる生命全体の「こころ」のプロセスに巧妙に組み込まれているのだと最近では思うようになってきた。

これは上昇志向が良いとか悪いとかいう客観的総論ではなくて、そのような生きざまと心理構造を見つめた個人的偏見の羅列なのだが。

健康を第一として観る立場からすると、何か上へ上へと絶えざる努力している人を見ると、私的な興奮や躍動感と引き換えにいのちを削って生きているようについ見えてしまう。

本人としてはやむにやまれぬ事情があるのだろうが、生命にかしずく身としてはいたたまれない気持ちになる。