影―「私」という他人

影とは何か

わたしたちは普段の生活の中で「なぜか好きになれない」、あるいは「生理的に受け付けない」などといって、理由のわからない嫌悪感を抱く相手に出会うことがあります。

実はこのようなとき、原因が相手の外見や性格にではなく自分の心の中の「ある領域(意識にのぼらない闇の部分)」が微妙に作用して、その相手を「嫌い」という角度で映し出していることがよくあります。

そのような負の感情の元となる漠としたイメージ群のことをユング心理学では「影(シャドウ)」と名づけました。

影とは、自分の中にある受け入れがたい欲求や感受性傾向が一つの人格性を成したもののことです。

ユングの言葉によると、

「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと―たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向―を人格化したものである」(河合隼雄著『無意識の構造』中公新書 p.92)

というように述べています。

影の投影

それではここで少し影の具体的な例をあげてみましょう。

例えば「男はクヨクヨ、メソメソするものではない!」と絶えず自らを叱咤激励しているような人(男性)は、女々しい態度を露呈する人を見ると無性に腹が立ってきて攻撃したくなるものです。

このような場合、俗にいう「男らしい」人格に凝り固まったために自分の中にある弱さを認め、内省するような深みのある態度が影になっている、ということができます。

または、会社で男性と同様の服装や対等な態度でバリバリ働いているキャリアウーマンなどは、これとは反対に女性という立場を利用して上手に甘えながら職場に融け込んでる人をみると「どうしてあんな幼稚な女性をみんな可愛がるのか!」などとイライラしたりします。

このように例を挙げればきりがないのですが、自分の中にある影のイメージは他人を見ることでその姿を明確に捉えることができます。

これを「影の投影(プロジェクション)」といいます。

生きられなかった半面

さて、そのような自分の中にひそむ第二の人格とも言える「影」は、わたし自身の安定的した人格や生活を脅かすだけの危険な存在なのでしょうか。

実はこの影という概念の生みの親である(元型の一つとして見つけ出した)ユングは、そのようなマイナスの見方にとどまってはいません。

影とはいってみれば、わたしの中に存在しながら今日まで生きてこられなかった自分の半面なのです。

それは意識されずに無意識層にとどまっている間は「わたし」という自我の一貫性をときには支え、ときには脅かすという気まぐれな存在となります。

しかしその無意識の層に意識の光を当て、影の正体を見極めることができれば、今まで生きてこられなかった半面を今後の人生に活かすこともできるのです。

そうすることで、より円満な人格へと発達する可能性も生まれてくるものです。影とは自分の中で使われてこなかった特性であり、よりよく生きるための可能性を含んだ貴重な存在でもあるのです。

影との対話

カウンセリングのような心理療法を行うとき、まずほとんどの人がこの「影の問題」につき当ります。

今まで自分自身の承認を得られず、心の無意識領域に追いやられていた観念と対話し、その統合をはかることは、心理療法における一貫して重要なプロセスといえるでしょう。

一般的には「円満な人格の発達」などというと自分の中の悪や負の面を徹底的に排除して、まったくの善人や聖人君子を目指すものだと思われがちです。しかしこのような一面的な人格(自我)を形成することは強い偏りを生じ、それだけ影の領域が広く濃くなることを意味します。

人間がより大きく深く成長していくためには、むしろそのような影の存在を認め積極的に対話するように交流をはかることで、バランスよく自我の中に取り入れていく態度が求められるのです。

一般に「いい年の取り方をした」などと言われる人の中には、人知れず影の問題に取り組み(苦しみ)上手にそれを乗り越えたケースを見ることができます。

影と向き合う危険性

一方でこうした影との対話にはある種の危険性をはらんでいることも知らねばならないでしょう。

それは今日まで築き上げてきた自分の人格と、そこから形成されてきた人付き合いや生活スタイルの安定を脅かすことになりかねないからです。

たとえば先ほど挙げた「男らしく」生きてきた男性が強気な経営者やスポーツの監督など精神的な指導者であった場合、自分の中にある繊細さであるとか、ときに恐怖や不安に支配されそうな心に出会ってしまうことで現在の地位を失う危険性もあるのです。

実際にはこのような「弱さの受容」をともなわない見せかけの強さは、まさしく「張子の虎」のようなものなのです。そのような偏ったうわべだけの強さは不自然な力みをともない、予想外のストレスがかかったときに意外なもろさを露呈することがしばしばあります。

ですからこのような場合、真の強さを養うには自己の内面に向き合うことで獲得される「安定性」が求められるのです。

そこで心理療法に取りかかる際にはカウンセラーもクライエントも、そのメリットと同時に、通過儀礼としての「リスク」についてもよく考える必要があると言えるでしょう。

実際にはこのような影の存在をまったく知らずに生きているとき、人生の大事な場面やいわゆる勝負所で「影になっている心」が微妙に作用して、かえって危機的状況がくり返し訪れることはよくあることです。

中年期までに大半の人が亡くなっていた明治以前の日本などはそれでも大きな問題はなかったかもしれません。しかしほとんどの人が老年の域まで生きる現代社会においては、青年期までに形成される一面的な人格だけで一生を押し通すことはほぼ不可能ともいえそうです。

遅かれ早かれ人は自分自身の影の問題に遭遇するのが、長寿社会である現代を生きる上では宿命であるように思われます。

「影の統合」と終わりなき人格陶冶の道

これまで繰り返し述べてきたように「自分の中にある影の存在を認め、統合をすることができればその後の人生を豊かに生きられる」とするならば、それは誰にとっても魅力的な話にちがいありません。

しかし一生の間に、一人の人間として「人格が完成する」などということがあるのか、ということについては慎重に考えねばならないでしょう。

現実問題として、無意識の領域から「影」を100%すくい出し、その全てを自我のなかに統合するということは生身の人間には不可能であるとも考えられます。

実際の心理臨床においては広大な無意識領域の中からごくごく少量の影をすくって、それをじっくりと時間をかけて自我のなかに少しずつ融け込ませていくようにするのが上策です。

なぜなら日常生活においても「魔が差した」などと言って、ふとした瞬間に自身の影に飲み込まれて、思い切った行動に手を染めた結果、転落人生を歩むような例が散見されるからです。

今まで生きてこられなかった「影」は常に自我の統制力が弱まる隙をねらって、その行動化と現実化を虎視眈々とねらっているかのように感じることがあります。

それは大局的には「自己実現」という壮大な本流へと通じる大道なのですが、その過程においては時に生命を危機へと追いやる危険性をもはらんでいることを知らねばならないでしょう。

全ての薬には副作用があり、適量をあやまれば死に直結するのと同じように、心理療法における「影」の役割も劇薬に相当するものと考えた方がよさそうです。

そうかといって影との対話から得られる恩恵のすべてを早々にあきらめ、一面的な生き方を選らぶならばそれは人間味に欠ける深みのない生涯となりかねません。

いずれにせよ中年期を境に人は遅かれ早かれ自分自身の生きられなかった半面に気づき、何らかの対応を求められるということは間違いないようです。

何ごとも不安や恐怖というものは「よくわからない」ということに起因するものです。孫子の兵法にある有名な言葉の「敵を知り己を知れば‥」という古語にならい、いつ訪れるかわからない影との対決に備えて少しでも自分の影について知っておくことはきっと助けになるでしょう。

しかしながら、そもそも影は自分自身で承認できないからこそ「無意識」という広大な海の中に棲んでいるのです。

一般に「自分の敵は自分」などとよく言いますが、なかなか自分自身の影とは厄介な相手であることは間違いないでしょう。そしてその背後には大きな可能性を宿した、真に自分らしく生きるための原泉でもあるのです。

 

心身症(失感情症)の治療を考える

心身症とは何か

心身症とはその名前の響きからよく「うつ」や「神経症(ノイローゼ)」と同じような「精神的な病気」というイメージをもたれやすいのですが、本来は体に現れている病気の中で特に心理的な要因が深く関連しているとみられるものを指してこう呼びます。いま現在、多くの方が利用されている「心療内科」で主に対象とするのがこの心身症です。

具体的には、過換気症候群気管支喘息(ぜんそく)、アトピー性皮膚炎蕁麻疹(じんましん)、胃・十二指腸潰瘍(かいよう)、過敏性大腸炎心筋梗塞繊維筋痛症高血圧腰痛症などなど数多くありますが、どの病気までを心身症とみなすかは現在でもさまざまな意見があり、医師によっては身体上に現れている疾患のすべてを心身症とみなすべきだと考える人もいるようです。

何故かといえば人間の病気を心身一如の態度で観察すると、心理の影響を受けない身体の症状は一つもないことがわかります。ですから身体になんらかの不快な症状があらわれた場合に、身体と精神の両方からその原因を探ることは非常に大切な視点であるといえるでしょう。

心身症の根本にある失感情症(アレキシサイミア)

心身症を患っている方の多くは失感情症(アレキシサイミア)や失体感症(アレキシソミア)という心身の「にぶり」も伴っています。そのために当人の治癒を助ける過程においては、感情や身体の感覚に対する「気づき」を手伝うこが不可欠です。

少し専門的な言葉になりますが、失感情症(アレキシサイミア)というのは文字通り自分の「感情」が自分でよく感受できない症状のことです。失感情症の患者はいわゆる喜怒哀楽といわれるような情動体験を上手く身体上にあらわせなかったり、あるいは言葉で表現できなかったりといった状態に悩まされます。

自分の体に現れている症状についてはこと細かに説明できるのに、「心で感じていること」についてはなんら感知されず、そのため治療者やカウンセラーとのコミュニケーションが難しい、といった問題があります。

これは近年によく見られる、ものごと全般に無関心・無感動な(シラけた)学生や、勤め先の人間関係や規則に過剰適応している(自分の主義主張がほとんど失われている)会社員などに現れやすい状態です。

失感情症になる原因

ではなぜこのような感情の鈍りが起こるのでしょうか。失感情症の原因には諸説ありますが、その一つとして成育環境が挙げられます。

幼児期に保護者や養育者にあたる人物(おもに両親)が、子どもの訴えている言葉や表面に現れた行動だけに反応して、表現される以前の微細な感情(表情や身体の微妙な変化)にはあまり気づいてもらえなかった、という場合に失感情傾向になると考えられています。

感情をこまやかに受け取ってもらえなかった子どもは周囲との緻密なコミュニケーションをあきらめてしまいがちです。その結果、言葉においても感情表現されなくなり、解消されなかった心のエネルギーは肉体の病気として訴えるようになります。科学的根拠に乏しいため一概には言えませんが、小児ぜんそくやアトピーなどをその典型として見る向きもあるようです。

なお、このとき患者の主観としては身体的苦痛のみが感ぜられ、心理的な不快感は意識されていません。

もちろん成人してからでも感情を失わせる出来事はあります。例えば社会生活において人間関係のストレスはつきものですが、このような場合にどこにも訴える人(患者の味方となる人)がいなかったり、どんなに苦しい思いをしたところで事態の改善が望めないような状況が長く続いたりすると、先ほどと同じように感情はにぶり始めます。

失感情症の治癒を助ける方法

さて、このような過程で失感情におちいった場合どのように回復してったらいのでしょうか。これも「こうすれば失感情症が治る」という固定的な治療法があるわけではありませんが一応のパターンはあります。

その一つは「対話」です。

「失感情の患者だって会話くらいやっているよ」と言われてしまいそうですが、これは「日常の会話」ではなく、その人の胸の内が開かれていくような「心の対話」のことをさしています。主に精神科や心理療法室で医師、あるいは臨床心理士によって行なわれるカウンセリング(対話療法)がこれにあたります。

しっかりと保護されて開かれた場の中でクライエントの話をひたすら肯定的に聴いてもらうことで、今まで意識化されなかった不快情動が活性化し、カウンセラーの前で泣き出したり、怒りを現したりすることは対話療法においてはよく見られる光景です。

ただしカウンセラーの力量が及ばなかったり、失感情のレベルが深刻な場合はこのような対話法のみでは改善が見込めないケースも散見されます。そのような背景も手伝って、体から心に働きかけるようなアプローチ法が今日ではいろいろと模索されています。

一例としては自律訓練法、生体エネルギー療法(呼吸法や運動で筋肉の緊張を解く方法)、行動療法などがあり、その他にも動物と触れ合ったり、農作業や園芸のような土いじりをするなど、さまざまな行為に心理療法的効果が期待されています。

他にも自分の感情の認知と表出を助けるような箱庭療法や、よりダイナミックな芸術療法、観劇(心理劇)なども有効と目されています。

さらにスポーツや武道、宗教的な修行においても失感情からの回復は十分望めます。ですがこれらの指導者がそもそも治療を目的そしていないことに加えて、必ずしも人間の心理や生理に造詣が深いわけではないため、偏った指導法(低劣なシゴキなど)によってかえってクライエントの傷を深くしてしまう可能性もあるので充分な注意が必要です。

麻痺した感情を呼び覚ますのは「心」

ここまでお読みいただいた方はもうお解りのことと思いますが、健全な心とは喜怒哀楽の感情がすべて活き活きと感じられている心身のことです。

本来このような心は生まれたとき誰もが持っていたはずですが、先に述べたように感情のはたらきを周囲の大人に上手に受け取って開拓してもらえなかったり、せっかく表現した感情をキャッチしてもらえない、あるいは否定的に受け取られたりしたことで感じる機能が一時的に凍りついたようになって麻痺しているのです。

ですからどんな方法でも良いですから、その凍った心を少しずつとかしていく「もう一つの心」のエネルギーが接触すれば失感情は少しずつ解消され、心身症的な病気も回復の兆しが見えてきます。

せい氣院では主に気の手当てである愉気法と自律神経を整える活元運動カウンセリングを織り交ぜて取り組んでいますが、これらはすべてクライエントさんとつながるための「手段」にすぎないと思っています。

何より大切なことは、苦しんでいる人と同じ心の温度になって接触することです。

人間の精神・身体はいずれも複雑で「こうすれば、こうなる」という再現性や普遍性を見出すことはむずかしいものです。ですが、深い苦しみをかかえたクライエントの傍らに本当の理解者があらわれるとき、そこに必ず癒しは起こります。

慢性疾患を含む多くの病に言えることですが、生きてさえいればやがて治癒・快復の機運は訪れるのです。「その時」が来るまでは苦しいものですが、のぞみを失うことなくいろいろな方法を試してみると、それが一見無駄のようであっても広い視野でみると自己治癒につながる長い一本道であったことに気づかれると思います。

「うつ病」とは何か

うつ的気分は「何を」訴えているのか

ひとくちに「うつ病」といっても、症状の軽重やうつになったきっかけ、原因によってその苦しさや意味合いもかなり変わってきます。

気分が重度に落ち込んでしまえば、学校へ行けない、あるいは勤め先に行けない、など直接的に実生活への影響が出てきます。

また薬を飲んでも改善されないどころか、服用したことでさらに苦しい気分を味わったという人のお話もよく聞きます。投薬治療の是非についてここでは論じませんが、薬を飲んでも治らない、長期休学・休職をしていてもよくならない、というような方がせい氣院にお越しになられることがあります。

このような方からお問い合わせのとき直接的に「そちらの整体でうつ病は治りますか?」と訊かれることもありますが、これは非常にむずかしい質問です。

何故かといえば、これはどのような病状にも言えることですが、Aさんのうつ病とBさんのうつ病は診断名は同じでもその中身はまったく違うからです。

ですから本当のところはお会いしてみないと判りません。もっと言えば一緒に数ヶ月取り組んでみなければ、その方がどのような事情で苦しんでいて、どんなプロセスを踏んで治っていかれるかは解らないのです。

ただ一つ言えることは「うつ」とはその人をただ苦しめるだけの病気ではなく、よりよく生きようとするこころ(たましい)の声であるということです。

このような視点でその苦しさに耳を傾けていくと、今まで気づかなかった自分らしさを見つけ出したり、人生の中で今まで光の当たっていなかった可能性の部分を拓くきっかけにもなりえます。

くり返しますが「うつ」はただの病気ではなく、心の自然治癒現象、よりよく生きようとする成長の痛みである、と考えることができます。

身体からこころにアプローチする

精神科のお医者さんやカウンセラーの多くは、主に「言葉」を使ってクライエントを絶えず緊張させている心の引っ掛かりを一つ一つはずしていこうとします。もちろん治療者の力量にもよりますが、このような方法で治っていかれる方は相当数おられると思います。

せい氣院の場合は整体(野口整体)をベースとしていますので、病院の診療室やカウンセリングルームで行なう投薬や対話中心の治療法とは異なる手法を取ることになります。

つまり「触れる」ということが大きく違うところです。実はうつの人というのは大体において身体がカチコチなのです。冷えて固くなった粘土のように弾力性に乏しくなっています。

ですからこれがほぐれるように手技によって、ゆるめていくことで気持ちに余裕が生まれてきます。この「ゆるみ」を誘うための要素として「気」ということが大変重要なのですが、気の概念を短い文章で説明することはむずかしいのでここではいたしません。

ともかく皮膚がゆるむようにやさしく触れていくことで、身体はもとの弾力と柔らかさを徐々に思い出していきます。

これに合わせて、ご自分の内面に向き合うだけの余裕のある方には対話も行なっていきます。このように皮膚感覚と言葉の理解の両方からアプローチしていくのが当院の特徴です。

技術や方法論以上に大切なのは「関係性」

でも本当は、どのような「やり方」をするかはそれほど重要ではありません。何をするかよりも、どんな人とどのような雰囲気の中で治癒が行なわれるかが何より大切なのです。

おそるおそる、はじめて訊ねて来られたクライエントさんに、「あ、この人ならわかってくれそうだ」と心の底から安心してもらえなければ、それこそ「お話」にはならないのですから‥。

これは治療の技法や理論を超えた、人間性とか人格という領域の問題だと思いますが、治療現場において一番大事なのはそういう人と人の間にある「関係性」であるということは、心理療法を少しでも勉強された人ならだれもが知っていることだと思います。

ナイチンゲールの言葉に「たった一人でもよいから、なんでも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたら、どんなにありがたいことだろう」というものが残されています。

この言葉も人の心とか体が癒えていく上で他者との良質な関係性、共感的理解ということがどれほど大切かを物語っています。

またこれに因んで、もう一つ思い出深い話があります。

それは以前私がある精神科医の講演会に参加したとき、そこで忘れられない言葉に出会いました。それは「心の病気は話すことで、ほぼ治療になる」というものでした。

それまで「こころの問題」というのは目に見えませんし、個人個人それぞれの病気がみんなユニークであるために、対処法も確立しにくいものだというイメージをつよく持っていました。そのうえ下手をすれば治療をするつもりがかえってクライエントの傷を深くしかねない、そういう非常に繊細かつ危険な面もあります。

それが「話せば、治っていくのだ」という非常にシンプルな理論(?)を臨床経験の豊富な精神科の先生の口から聴けたことは当時の自分にとって貴重な体験だったと今でも思います。

それだけに、なおのこと心の問題に向き合う治療者は相手に安心感を持って何でも話してもらえるように常に自らを内省し人間性を磨き続けることは当然の義務と言えるでしょう。

またそれ以上にクライエントさんも本当に自分にぴったりと合う、何でも話せそうな治療者や環境を妥協することなく探されることが大事だと思います。

矛盾の中にも生きる意義

来院当初にうつ病と診断されて大変苦しい思いを訴えておられた方が、しばらく通っているうちに気分が大分楽になり、「お陰様でよくなりました」という言葉を聞ける時はやはりうれしいものです。

その一方で最初の来院から、3ヶ月、半年、一年と経っても相変わらずっと苦しいまま、というような例も決して少なくありません。むしろ割合的にはこのようなクライエントさんの方が多い気がしています。

しかし考えてみれば、そうやって苦しい苦しいといいながらその方は何とか一日一日を生活していっているのですから、私はそのことにすごく深い意味を感じます。

また同じように「悩んでいる」、「苦しんでいる」といっても注意深く話を聞いていると、問題の焦点は微妙に動き続けていることがわかります。変わらないと言っている表面とは裏腹に、見えないところではずっと何かが動いているような雰囲気があるのです。

ここで急に穿った言い方をするかもわかりませんが、この世に生きておられる人で「苦しみ」から完全に解放されている人などきっとおられないと思います。

だけれども、生活の中でその人の視線が外の世界に向かっているときはそういう内的な苦しみや問題事は「一時的に消えて」いるのです。ところが何かの事情で目標が失われたり、人生に躓いたようなときに内面の問題にぐっと意識がフォーカスする場合があります。

こういうときに今まで顕在化していなかった悩みの部分が浮かび上がって来やすいのです。つまり、急に精神の病になったように思われるかも知れませんが、実はその人の知らない間に心の影のところでは「問題」が育っていた、とも言えそうです。

このような巨視的な視点に立っ考えてみると、うつ状態というのはそれ自体が心の中に隠れていた問題が顕在化し、バランスを取り戻そうとする治癒活動である、と言えそうな気もしてきます。

つまりその人が今、悩んだり苦しんだりすること自体にその後の人生を豊かに拓いていく過程として、大きな意味があるのではないでしょうか。

心は他者の心を通じて知ることができる

ところが、ここで又むずかしいのは、「だったらそんなのは相手にしないで、ほっておいたらいいではないですか」とはいかないことです。

実際にそういう見えない心のストレスと戦いつづけることに耐えかねて、生きていけなくなる方が今の日本には大勢おられるわけですから‥。「ほうっておいていい」などとはとても言えないはずです。

こういうときにこそ、そのぐしゃぐしゃに絡み合っている心の中の葛藤に一緒に向き合ってくれる人の存在が大切になってきます。

何故なら「人間の心」というのは独りでは捉えきれないものだからです。自分の心というものは他者の心というスクリーンに映し出されることで、はじめてはっきりしてくる面があります。

こんな場合によく「カウンセラーはクライエントの心を映す鏡になれ」などという言葉が用いられますが、大事なことはその鏡には血が通ってなければならない、ということです。

治療者となるはずの人間が、クライエントの言葉をただ冷たく跳ね返すだけの無機物になってしまっては、豊かな治癒活動は起こり得ません。先に述べた内容の繰り返しになりますが、だからこそ温かな「関係性」ということが求められるのです。

信頼できる他者との深い関わりの中ではじめて、心は変化と成長を引き起こすことができます。そういう温かな関係性の中にしばらく身を置いてみることで、苦しみと同時に楽しみや歓びがないまぜになっていることがわかることがあります。

「治った、治らない」という二分法の中にある間は事態はなかなか変わりません。そのどちらでもない「今」を歩きはじめるという、第三の道が見えたときにその人は長い心の旅路を通じてひとつ高次の自我へと成長したのだ、と考えることができます。

病気を経過することで生命は活性化し、惰性的に固着しかけた人生に新たな風を吹き込む、という考え方を私は野口整体とユング心理学の両方から学びました。でも、そうした学びに実感を持たせてくれたのはやはり日々の臨床でお会いするクライエントのみなさんです。

このように考えていくと、「うつ」はその人の中に隠されたつよさを浮き立たせてくれる、無意識の光であるような気がします。そしてそのような無量の光が誰の中にもあることを信じて、目の前に現れた人の心身に真っ直ぐ向き合っていくことが、人間における治療の原型である、と私は思っています。

どのようにして「心の問題」に向き合うか

「心の病」を抱える年齢層の拡大

21世紀は精神性の時代になるであろう。もしそうならなければ、21世紀は存在しないだろう。

これは、フランスの作家アンドレ・マルロー(1901- 1976)によって残された言葉です。

日本でもだいたい80年代の後半には「21世紀は心の時代」と予見されていました。実際に21世紀になってみるとストレス社会という呼び声もすっかり定着し、以前にもまして「心の病」「心の癒し」という言葉を目にする機会も増えました。

かつてユング心理学では40歳を「人生の正午」として捉え、その前後に起こる価値観の崩壊と再構成のプロセスを「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」と称して重要視していました。また、このことから自らの心理学を人生後半の心理学とも呼んでいます。

しかし価値観の多様化した現代の日本では、そうした「生きづらさ」という目に見えない心痛に悩む人々はもはや中年層に限定されるものではないようです。それこそ10代の若者から老年期に至るまで、幅広い年齢層の方が社会的立場、性別の枠を越えて自身の「生き方」について深く考える姿はよく見受けられます。ともすれば自覚のある、なしの違いだけで現代は多くの方が精神の危機に陥りやすい状況にあるとも言えそうです。

多様化する「癒し」の世界

そのような世相を反映するように「心の問題」に向き合う手段も拡充し、精神科・心療内科での投薬や対話療法(カウンセリング)をはじめ、世界中の文化に拠った各種の代替療法に加え坐禅やヨガ、気功といった東洋的宗教観に基づいた身体運用法(≒修行)などが心の治療や癒しの手段として適用されています。

一方では急激に「癒し」の選択肢が増えすぎたために、結局自分にとって何がよいのかわからなかったり、いろいろな治療理念を知りすぎたために「〈私〉という個人に向き合う機会が失われてしまう弊害まで出てきているように思います。

本来心の問題でも体の問題でも二つとして同じものはありません。ですから、ある一つの価値観や治療理念にこだわっていては万人の悩み苦しみに対処することは難しいのが実状なのです。

治癒と自己実現の密接な関係

本当の意味で「治る」ためには、その人だけの固有の治癒手段と心の成長プロセスを踏むことで、「真に自分らしく生きる道」を探がし出さなければならなりません。ユング心理学ではこれを「個性化」と呼び、生きた人間が自らのちからで治っていく、その「過程」を重んじる考え方を生みだしました。

この「自分らしさ」を磨き出していく個性化は、どこまで行っても途中(プロセス)であって、終着駅はありません。生涯かけて自分の内側から解答を紡ぎ出していくものであり、換言すれば「いつまでも柔軟に変化しつづける現在」こそが自然であり健康である、とも言えそうです。

一方、野口整体では「病気になるのも治るのも、同じ〈一つのちから〉である」と生命の真理を説いています。心でも体でも、「苦しいときに治っている」のです。この「病み苦しむ期間を、如何に活用するか」で、その後の身体や生き方を充実させようという視点は、野口整体とユング心理学に通底した生命に対する深い信頼の態度であると言えるでしょう。また比較的近年に誕生した「ホリッスティック医学」という概念はこうした考え方が科学的医療の世界にまで暗に波及したことが伺えます。

治療とは何か

近年、ホリスティック医学という分野が確立したことで、それまで主流であった投薬や手術という方法以外のあらゆる手段が治療現場に取り入れられる機運が生まれました。

こうして通常医療と代替医療の双方で様々な手法が生み出された結果、少しずつですが治療法選択の自由が認知されるようになってきたのが現代(の日本)と言えるでしょう。

ところで私は、治療とは「死を整えるために、現在に秩序を顕現させる方法である」という仮説のもと、今日まで研鑚を続けています。つまりこの仮説を満たすならば、あらゆる刺戟が治療となり得るということです。

例えば私が過去にお会いした人の中にも、面白い経過を辿って回復された方が沢山おられます。ある女性は和裁を習いはじめてから皮膚のアレルギーがすっかり出なくなりました。また、数ヶ月間に渡って海外をバックパッカーで放浪して帰ってきてから、抑うつ的気分がかなり軽減し、その後数年たっても安定した身心を保っている男性もいます。このように五感(六感)を通して感知されるあらゆる刺戟(音楽や味、香り、色彩‥etc)は必ず身心に何らかの反応と変化をもたらし、いのちの秩序回復要求を喚起するものです。

治癒の主体はクライエント自身

せい氣院では現在認められているいろいろな治療法の中から、「手当て(愉気)」と「自由運動(活元)」、そして「対話(カウンセリング)」という3つの手法を主軸にしてクライエントの自然治癒力を援助いたします。これにときおり風景構成法という絵画療法を試してみたりもしますが、常にそのときの受療者の心にぴったりと沿う最適の方法を模索しながら、慎重に進めるように心掛けています。

大切なことはクライエントに「良質の変化」を引き起こすという結果であって、メソッド(方法論)ではありません。また優れた治療者ほど受療者に起こっている「問題」を多面的に探ることを怠らず、またあらゆる方法を試みて、成果に結びつけようとするものです。つまり「私は何々療法を行ないます」という方法論にこだわり過ぎないということです。

そのために、私はその方にぴったりと合う刺戟を探し当てられるように、自分の感覚を純粋に保つことを何より大切にしています。本当に何が良いかはクライエントさんの身体と無意識に訊ねて、その方の〈いのち〉に教えていただくより他はないのです。整体や心理療法の臨床というのは特にそうだと思うのですが、同じ現象(相談)は二度起こりません。本来の「治療」とは、毎回違った〔問題〕にたった一つの答えを二人で協力し合って掘り当てていくという、極めて創造的な作業なのです。

そして、最終的にはクライエントが自分で治っていくことで、病気を通じ自身の生命力を自覚することが大切です。そのためせい氣院ではお越しになられた方が、ご自身の身体、そして無意識と落ち着いて向き合えるだけの静かな環境を整備することを第一に心掛けています。いのちあるかぎり、生命はその全体性に向かって動き続けることを止めません。ご相談に来られた方がいのちの根源的な快の感覚を信じ、本当の意味で自立して生活できるようになるまでしっかりサポートさせていただくことが、当院の使命であると考えています。

野口整体の整体指導とは

どのようにして「心の問題」に向き合うか

病気とは「抑圧」された感情を解放する力

自己実現 – 整体によるアプローチ

カウンセリング-体と心をつなぐ対話

話すこと、聴くこと

当院に来られる大半の方が、はじめはケガの痛みや病症・疾患のような「身体の悩み」で相談に来られますが、しばらく通いながらやり取りを続けていくと、やがては必ず「心理的な問題」に辿り着きます。というよりはむしろ、「身体のトラブルで心が関与しないものはない」といっても過言ではありません。身体に現れる問題の多くはその人の心の世界にある問題が表面化して起きていることがほとんどです。つまりは「病気や怪我が心の異常に気づかせ、自ら治ろうとしている」とも言えるでしょう。

ですから整体の臨床の場においても、その人の内面の世界に焦点を当ててじっと話を聴いていくだけで、身体上の悩みが自然に解消されていくようなことがあります。このことは身心の健康を保つうえで大変重要なことです。目に見えない心の問題に光があたり、その人自身が悩みの本質に気づくことではじめて根本的解決に向かうことができます。そのためにも私はとりわけ、この「話しを聴く時間」を大切にしたいと考えています。

カウンセリングの実際

ではカウンセリングと整体が実際の臨床において、どのようにつながっていくのかを考えてみましょう。はじめに座ってお話しているときはだいたいは理性が中心となって働いています。これは日常的な意識と言ってもよいもので、話すことはたいてい本人が「自覚しているもの」に限られています。内容は諸々ですが、仕事のこと、家庭のこと、本人としては「私は今これこれこういうことを、考えています(あるいは悩んでいます)」とはっきり理解もしているし、順序立てて人に語ることもできるのです。

そして当院の場合は充分話を伺った後に、「身体の観察(目で観て、手で触れて確かめる)」という作業にかかります。身体、とくに背中にはその人の胸の内(潜在するこころ)が現れやすいので、本人が気づいていない無意識レベルの葛藤なども捉えることができるのです。

もちろんあまり具体的なことまではわかりません。心の動きをぼんやりとした状態のまま捉えています。 例えば、数日前にむかっときたことがあったとか、不安になっているとか、嫌なことを我慢したなど、そういう瞬間的な情動がわりに色濃く身体に残っていることはよくあります。もちろん「ウキウキしている」なんていう楽しい気持ちも見える時はありますが、そういうものはあまり悪さをしませんからそっとしておきます。とにかくそういった自覚しづらい負の感情というのは、本人の知らない所で身体に大きく影響を与えていることが存外に多いのです。

不快感の中でも、新しいものは「今朝あった事」なんていうものもありますし、古いものは幼年期(乳児・胎児期)のような昔の成育環境まで逆登るものもあります。そこで、日常の出来事や今までの生活をふり返りながら自分自身の理解を深めていくと、身体を暗に支配している気持ち(潜在意識)に気付くことができるのです。こうした方法で心身への不快情動の影響をなくしていくことで、本来持っている自分の力を発揮し、その人らしい「より良い生き方」へと流れが変わっていきます。

話すことでゆるむ

上のような事情で、当院では特に初回お体に触れる前に、ゆったりリラックスしてお話しを聞くための時間を設けています。時間の長さは特に決めていませんが、初回のお時間がだいたい2時間くらいですから、あまりお話をされない方の場合は30分ほど、長い方だと1時間くらいです。過去に予約時間のほとんど(2時間)をお話に費やして、「何だかわかりませんが、楽になった」といって帰られた方もいらっしゃいますので、その辺りはお越しになられた方のその日の調子にある程度お任せしています。

また「心の内面の悩み」などというと、何となく話しづらくなる方もいらっしゃると思います。身体に不調を抱えている方の中には、それ以前に一人で深く考えすぎてとても疲れていたり、自分の内面の問題にうすうす感づいていても、それがあまりに辛い出来事であったためにうまく感じ過ぎないように生活しているようなケースもあります。そのような方にとって、知らない人と会って話をするということ自体が大変疲れるものです。これでは充分リラックスして癒されるのはむずかしくなってしまいますね。

自然治癒力というのは心身ともに力が抜けてリラックスしている時によく発揮されるものです。少し言い方を変えると、健康を保つためには、生活の中で心と体が共にやわらかく、「ゆるんでいる」ということがとても大切なのです。そういう観点から見たときに、落ち着いた環境で「自分の思っていることを、好きなように話し、ただ聴いてもらう」ことは、身体の緊張を取るためにはなかなか効果的なようなのです。

自分の隠れた心に気づいてあげる

話す内容はその人の生活上の出来事や仕事・趣味の話、家庭の出来事など、どんな内容でも良いと思います(ヒミツを無理に話す必要はありません)。一見して身体の問題とは関係なさそうな話でも、その人の心の中ではどこかでつながりがあるものです。

それは例えると植物の専門家が大木に茂った一枚の葉っぱを観ても、その樹木の品種や健康状態などが解るのと似ています。クライエントの発する全ての言葉には意味があって、そこに静かに共感しながら耳を傾けているだけでも、時間とともにクライエントが自分の力で立ち直っていかれることがあるのです。こんなとき私は心の自浄作用とでも言えるような、生命の〈つよさ〉に感嘆いたします。

上のような理由から、当院ではこういった「こころの対話」をなるべく自然に行えるように、お越しになられた方にはまず充分にリラックスしていただけるような環境作りを大切にしています。心の問題に気づいてそっと見守ってあげると、それだけで何かが変わってくるから不思議です。こうした問題はお一人ではなかなか見つけにくいので、「どういうところが、どんなふうに大変なのか」をよく伺って、共感していくことを何より大切にしたいのです。その手段としてまず当院では、一つ一つの言葉のやり取りをできるだけ大切に行うよう心掛けています。

整体やカウンセリングがまったく初めての方は最初緊張されるかも知れませんが、みなさんが普段からしている「お話」となんら変わったところはありません。何かお悩みのある方はまずは一度当院のカウンセリングを体験してみてください。