野口整体の整体指導とは

整体指導とは何か

普通の整体では「施術」という言葉を用いますが、野口整体では「整体指導」と言い表します。一般にはあまり馴染みのない表現になりますが、これにはきちんとした理由があります。

整体指導の目標は、身心ともにその人の力によって内面から整っていくことにあります。そしてその整った身体を基盤にして、その人なりの固有の人生(≒アイデンティティ)を日々創造していくことを期待して行なうのです。

そのために手技によって他動的に整えようとする「施術」とは、外から見た形は似ていても中身は別のものなのです。

つまり整体指導は最初から「自立」を前提としています。何か特別な方法に頼って治したり丈夫にするのではなく、逆に頼っているものをどんどん減らしていって、その頼りたい心も更生し、もともとの丈夫な心と体の状態に戻していくのです。

ですから整体指導とは体が弱いからといって余分に守ったり、こわれた体を修繕しようというような消極的な態度ではありません。むしろ整った体を日々育てることで、その人が自分らしく十全に生きていく道を指導者と共に開拓していく作業なのです。

身体の偏り

また普通の整体で「体の歪み」と言うところを、野口整体では「偏り疲労」または単に「偏り」というように表現します。

どんなに身体が曲がったり捻れていてもそれは「歪んで」いるのではなくて、その人なりの心理的事情によって一過性にその様な体勢を取っている、と観ているのです。

すなわち身体が偏る原因はその人の心、観念にあります。

「怒りっぽい」「涙もろい」「気落ちしやすい」などなど、生まれた時にはさほど身に付いてなかったいろいろな感受性を生みす観念が、両親の性格や成育環境によって知らず知らずのうちにその人の心に沁みついています。

このように書くと悪いことのように聞こえますが、どのような感受性でも良いか悪いかというのは一概には言えません。またその人らしい「人格」が形成されていくうえでは避けては通れない、必然の道であるとも言えます。

無論どのような観念であろうとも、結果その人が日々元気で活き活きしていればいいのです。ところが、そうした観念の中には生命力を屈せしめ、本来の体力を発揮させないように作用しているものが少なくありません。

そこで、こういう言わば身体の枷(かせ)になっているようなその人なりの「心の偏り、しこり」に光を当て、自らこれを改めるように導いていくことが野口整体の核心部分なのです。

病気は心を洗い体を整える、いのちの智慧

現代では病気は降って湧いたように偶然かかるものと信じている方が多いと思いますが、病気というのはこれまでに充分生きられなかったその人の無意識の訴えが身体の症状となって現れているものです。

どのような症状であっても身体がそのようになったのは、そのような生活があり、そのような生活が形づくられていった原因は、生まれてから今日までに形成されたその人なりの感受性に基づいた身体的「偏り」にあるのです。

ですからその感受性傾向を正さないかぎり、身体バランスを取り戻すための病気を常に生産し続けます。そこで「潜在意識教育」が求められるのです。野口整体はある時期をもって「病気とは身心の平衡を取り戻す、健康の働き」であることを見究めたのです。

そのために整体指導においては病症をむりやり消すのではなく、これを上手く利用し経過させることで発症する前よりも整った体に戻し、またその人の心(人格)を刷新することに照準を絞って行なっていくのが本当です。

「不整体」の観念を取り払う

ですから「歪んだものに手を加えて整える」のではなく、身体を常に「偏らせている何かを取り除く」ことで、本来の姿に戻していくのです。

これに因んだものとして中国の古典思想の一つ、老子の言葉には「学を為(な)せば日に益す、道を為せば日に損す。之を損し又損して、以(も)って為す無きに至る。無為にして為さざるは無し。」というのがあります。

一般的な健康法とよばれるものの多くはこの「学を為す」態度に近いと言えるでしょう。つまり何かを学ぶことで、現状に何かを加え足していくのです。例えば食事療法でもこういう栄養が必要だとわかると、適量を無視して過剰に取り入れたり、体操でも個人、個体に適した「度合い」ということには無頓着に行うものが大半を占めています。

整体はこれと反対の「道を為す」という方法なのです。つまり無駄なものをどんどん取り去っていく。こうすることで最初に備わっていた身体の「バランス」を取り戻すことに着眼しています。つまり無為自然のバランスを崩している「何か」を見つけ出し、取り除くことが基本なのです。

本当の意味で自然の健康を保つためには、その人の身体の健全な活動を乱している「何か」、つまり不整体にしている「自分自身の心の癖や偏り、不要な観念」を払拭することが大切なのです。

逆に言えばこのプロセスを踏まなければ、本当の意味で自立した健康生活を確立することはできません。最終的には何か特別なものに頼らなくても、その人なりの生活を送る中で、自然に健康が保てるという状態にならなければ指導の意味がないのです。

体が整えることで拓ける人生

現代を生きる人は常に頭を使う状況にあります。そういう意識に偏った現代人に求められるものは、意識を閉じて無意識や身体と深くつながれる時間を設け、積極的に内省を行なうことです。

このように身体を通じて自己を省みることで、はじめて人は自分自身に目覚め、自分だけのオリジナルの人生を拓いていくことができるのです。

ところがこれがなかなか容易ではないことは、多くの方の知るところだと思います。

むしろ現代ではこの世に生まれながら自分自身の要求を使いこなすことができず、むしろそういう要求の存在すら気づかずに生活している人の方が大半を占めているでしょう。

もちろんこのような態度では毎日を元気よく生きて、自分自身が納得のいく人生を創造していくことは不可能です。

そうであるが故に、野口整体は「全力を発揮して、生きているうちに要求を全て使い果たせ」という理想を掲げ、賛同者への実践を促してきたのです。自らの要求を知り、その要求を全て使い果たすことで整体に生きた者は、死を迎えるときに苦しまないのだという考え方です。

創始者 野口晴哉はこれを「全生思想」と表現しています。

つまり野口整体とは「整った体を自分で保ち、全生せよ」と言っているのです。

整体指導とはこのような「志」を積極的に支援する方法に他なりません。

命というのは本当に「掛け替え」がないのです。今日という一日も刻々と過ぎていきます。

そこに厳しさや尊さを感じる人だけが本当に自らの身心に真正面から取り組むことができるのです。

元来、整体指導とは「真面目に」生きようと願う人のために生まれたものです。そのように真剣に生きるということは、その分の苦しみを伴うけれどもそれだけ心の底から楽しく、本当に心地のいい生活ができるのだと言えるでしょう。

今日を十全に生きることで、人生を拓く。

多くの方にこの整体の理念に触れていただき、元気よく生きる人の多い世の中を生み出すために貢献することが整体指導者の役割なのです。

どのようにして「心の問題」に向き合うか

病気とは「抑圧」された感情を解放する力

自己実現 – 整体によるアプローチ

自己実現 – 野口整体によるアプローチ

野口整体とは〈自分らしさ〉を紡ぎ出す身体教育

整体とは「体を整えることで、生命を全うする」というものです。

意識を深くしずめて身体の感受性をたかめ、自身の裡なる要求を知ることで自発的な生活が実現します。

自分に潜在するちからを自覚し、これを余すことなく使っていくことでいのちは輝きます。

当院は自己のいのちをあらため、真の人生を生きようとする人の修養の場として活動しています。

自分の心や体は、いまどうなっているのか

「身体の慢性的な不調に悩まされている」
「薬を飲んでもよく眠れず、まったく気分がよくならない」
「自分の感情がわからない(喜怒哀楽の感情の起伏が感じられない)」
「自分がどうしたいのか、どのように生きればよいのかわからない」

現代の日本には上のような「病気という程ではなくても、健康であることをはっきり自覚できない方」はたくさんいらっしゃいます。

中でも「うつ・(不安)神経症・自律神経失調症」といった心と体の両面にまたがる疾患が数多く目立ち、特に青年期~中年期にかけて自身の生き方について長期にわたって悩んだり、予期せぬ病気にかかったことをきっかけに自分の心や体、また生命に対して漠とした不安を抱える方も少なくありません。

当院は、このようにして沸き起こってくる様々な身体の不調や違和感、また抑うつや不安、意欲がわかないといった心の不全感など、心身両面の問題に自ら向き合おうとする方を対象に整体指導を行なっています。

「整体指導」とはこうした症状を治す(消す)のではなく、体を整えて病症体験を乗り越えることによって心の在り方を再編し、人格の変容・成長を期するものです。

整体の目的はその人らしく、「よく生きる」こと

整体の目的は体を整えることで自身に潜在している力を掘り起し、発揮していくことにあります。心身の変化にともない自身にとって「よりよく生きる道」を開拓し、充実した人生を創造していくことが主眼となります。

そのためには先ず「体が整っているとはどのような状態か?」ということを自分の身体を通じて体験的に理解していくことが必要です。

ここでの「整っている」とは単に背骨が真っ直ぐであるとか肩・骨盤が水平であるということではなく、個人が自己の内面にある快の感覚に順じて、「自然とそうなっている」体勢にあることです。

これに反し、現代を生きる多くの方々はさまざまな観念や知識によって、身体に具わる自然の感受性を曇らせて生活しています。しかし人間は本来、無意識のはたらきによって何もしなくても身体は整うようにできているのです。

このように「何もしなくても整う」ためには、頭のはたらきを充分に鎮め(ポカンとさせ)てこれまで感ずることのなかった微細な身体の感覚が味わえるように正しい訓練をしていく必要があります。

つまり「身体を敏感にする」ということですが、その過程において全身のゆるみが重要な鍵となります。

「体が整う」ことで見えてくる本当の自分

現代人の多くは意識に偏ったために、「自分がどうしたいのか、どのように生きようとしているのか」といった根源的な要求に対して非常に鈍くなっています。

これは義務教育を中心に「考えること」を幼児期から訓練されることが深く関与しています。もちろんこのこと自体は悪いことではりませんが、理想を言えば考える訓練と同等に感じる能力ー感性および身体性ーの訓練も行われることが望ましいのです。

本来生命の根本的な「要求」は意識のずっと深層にあります。しかしながら、忙しい現代社会を生きる多くの人々は常に思考が過剰に働いているために、自身の「感じているもの」を味わっている時間が充分に取れないのが実状です。

そのため一時的に意識の状態を切り替えることで身体の要求に任せ、自分の無意識と向き合う場を作ることで心の均衡を取り戻す(瞑想法の)必要性が高い状態にあると言えるのです。

心の深層にある「要求」を知り、生を全うする

野口整体にはそうした良質の瞑想に入る方法として活元運動という無意識運動があります。これにより意識の過剰な亢進によって生み出される身体の緊張(凝りや張り)をゆるめ、普段は意識の抑制を受けて沈んでいる無意識を一時的に活性化させることができるのです。

このときはじめて頭がポカンとし、本来の私(自己)が目覚め活発に動き始めます。このような体験を一定期間くり返すことで「自分がどうしたいのか、どのようにこの人生を完成させたいのか」といった根源的な要求に沿って行動していくことが少しずつ可能になっていきます。

ここで改めて「野口整体とは何か」と問うならば、それは体の自然、あるいは心の自然(無意識)を信頼し、これに委ねることで自身の生命を十全に拓かんとする敬虔な態度である、と言うことができるでしょう。

このような生き方を希望する人にとって、よく整った身心こそが、生命にとって最良のよすがとなることをきっと自覚されることと思います。

野口整体の整体指導とは

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自己実現 – 整体によるアプローチ

体癖とは何か

自分らしさは身体にある

体癖とはその人らしい考え方や感受性が、個人の体型や動作の習性と関連しているという見方です。人間における、一人一人異なる感受性を「体の癖」という角度から見ることで理解を深めることができます。

体癖は整体を創始した野口晴哉先生によって大きく10種類にまとめられました。1日あたり百数十人の身体を観るという生活を生涯続けたことで、「いつも同じような疲労の仕方をする人や、似たような行動をする人達のモデル」を見つけ出したことに起因します。

身体から人を理解する

体癖は上下型1・2種、左右型3・4種、前後型5・6種、捻じれ型7・8種、開閉型9・10と分けられています。

自分の体癖に合わない生活をしていたり、自分らしさを発揮できない生き方をしていることは当人にとって大変不自由でつらいことです。

逆に自身の身体的な特性をより深く理解していくことで、余分に身体をこわしたり不快な情動に振り回されることは少なくなっていきます。

身体を通じて「自分らしさ」をよく知っていくことは、それぞれの素質に適った生活を築くうえで非常に大切な視点となります。

体癖表

奇数体癖偶数体癖動作の焦点感受性
上下型1種2種腰椎 1番 首・大脳毀誉褒貶
左右型3種4種腰椎 2番 胃腸・消化器好き嫌い
前後型5種6種腰椎 5番 肺・胸郭利害得失
捻れ型7種8種腰椎 3番 泌尿器勝ち負け
開閉型9種10種腰椎 4番 骨盤・生殖器愛憎
(遅速型)11種12種

※奇数体癖は余ったエネルギーを身体の特定の部位(動作の焦点となる内臓や器官)を使って鬱散しやすく、偶数体癖は逆に特定の部位がはたらきが悪くなり毀しやすい。

例1)消化器型の左右型は3種と4種にわかれています。3種がいつも感情と一緒に胃袋が動く(やけ食いなどをする)のに対して、4種は感情面で何かが引っかかると何も食べられなくなります。3種は好きな食べ物をよく思い浮かべますが4種は偏食、嫌いな食べ物に敏感です。

例2)前後型は呼吸器(肺)の意識が濃く5種・6種に分かれます。5種は呼吸器がよく発達しており、体を動かして前進することや、周囲から目立つことに関心を持ちます。機械のような合理性を好む反面、感情を受け取ったり微細な審美観を問われるような作業(芸術など)はやや苦手です。それに対して6種は目立たないことを好み、身体をうごかすと呼吸器から疲労してきます。また、6種は美しいものきれいなものに敏感です。

自分自身を知ることで個性を活かす

体癖は身体を丁寧に観察することで「自分にはどんな習性があって、どんな感受性の傾向があるのか」を深く理解することができます。

例えば野菜を切るときは包丁を使いますが、木や氷のような固いもの切る時は包丁よりもノコギリの方がよく切れます。「機能」というのは環境によって発揮されるのです。人間の才能や特性というのもこれと一緒で、個性というのは能力以前の問題と言えるでしょう。

そのために体癖論を理解していくことで人それぞれの得意不得意を理解し、不足を庇い合ったり長所を活かし合ったりして生活していくことが個においても集団においても豊かに生きることに繋がってくると思います。

背骨(身体)を読みとる

背骨の観察

整体では主に背骨・骨盤の状態を観察してその人の状態を把握します。

整体というと多くの場合、「曲がった背骨を見つけ出してまっすぐに治す技術」であると思われがちですが、実際には物理的に骨を動かすような技術は用いません。そのために痛みを伴わず安全なのです

愉気法という整体特有の気の手当て法によって筋肉の硬直をゆるめることで、骨格のひずみは自然に修正されていきます。

このように他動的刺激によって自発的治癒力を引き出すところに整体の技術の醍醐味があります。

背骨のこわばり – 硬結について


背骨は首から尾骨まで管になっていてその中を脊髄神経が通っています。

脳から伸びた神経が背骨の穴(椎孔)を通って内臓や筋肉を動かしたり、逆に臓器の状況を脳に知らせたりしています。

運動系の疲労や身体の生理的な働きは全て背骨の形となって現れています。そのため、背骨の一つ一つに指で触れることで、身体の疲労箇所や鈍っている場所を特定することができるのです。

蓄積された疲労が一定量を超えると、「硬結」という豆状のコリが背骨のきわに浮かんできます。

愉気で押さえていると硬結は消えますが、整体は揉みほぐしの技術ではありませんので硬結を消すことよりも、「全身の中でそのコリがどんな意味を成しているのか?」を読み取ることが大切です。(整体操法のページも合わせてご参照ください。)

実際の臨床では背骨から得た情報を元に、その日その人に合った操法を組み上げていきます。

背骨は人生の形

筋肉を主とする特定の運動系の働きや、内臓の動きが繰り返されることで背骨にはその人独自の癖がつきます。

このことから、整体指導者は背骨の観察によって相手の生活環境を把握することができます。

また感情活動の経緯も背中にはっきりと記録されます。

例えば嫌なことをガマンしていると胸椎部(肩甲骨の間あたり)の背骨がみんな捻じれてきます。

また怒ったり吃驚すると背骨は全部尖って頭の方へ上がります。

こうした特定の感情が繰り返された結果、身体にはその人独自の雰囲気が備わってきます。

幼少期、生育期に緊張や抑制が強かったりするとそのような「習性」(パターン)が身に付いてしまい、それ以後の人生にも同じようなパターンが繰り返されていくことを臨床ではよく目にします。

病気や怪我を繰り返す人は、背骨・骨盤を中心に身体(と心)の有り様を見つめなおし、適切な修正を繰り返すことで自分の健康を自分で保つ道が拓けていきます。

足湯と脚湯

あし湯のやり方

整体には入浴の温度・時間・部位を限定して身体の調整を行う方法がいくつか伝えられています。代表的なものをご紹介いたしますのでご自宅でのケアにお役立てください。

あし湯はご存知の方も多いと思います。いわゆるフットバスのことです。 通常は夜、就寝前に行います。ただ、夏から秋口にかけて急に気候が変わって冷えたような場合、整体では朝起きた時にも行うことを勧めます。冬に入りさらに寒くなると起きてすぐよりも少し時間が経ってから行う方法が良いとされています。 また風邪をひかれた時に、あし湯を上手に行うと経過がスムーズになって身体の疲れがキレイに抜けます。以下2つの方法をご紹介いたします。

脚湯 (きゃくとう)

1. 脚湯に先立って、コップ一杯の水を飲みます。
2. 入浴温度より2℃位高い湯(42℃~45℃)に膝がかくれるまでつけ、6分間保ちます。
(温度は目安にしてください。全身浴よりちょっと高めです。)
3. 湯の温度が下がらないように、差し湯をしながら行います。
4. 乾いたタオルでよく拭き、両脚を見比べてあまり赤くなっていない方があれば
その側をさらに2分脚湯する。
5. 脚の水気は最後にタオルでよく拭き取ります。

足湯 (そくとう)

1. 足湯に先立って、コップ一杯の水を飲みます。
2. 入浴温度より2.5℃~3℃高い湯に踝(くるぶし)がかくれるまでつけ、6分間保ちます。
3. 毎湯の温度が下がらないように、差し湯をしながら行います。
4. 乾いたタオルでよく拭き、両足を見比べてあまり赤くなっていない方があれば
その側をさらに2分足湯する。
5. 脚の水気は最後にタオルでよく拭き取ります。

二つのあし湯 その使い分け

脚湯(膝がかくれるまで)足湯(くるぶしがかくれるまで)
消化器系統の風邪(下痢、食欲不振‥)呼吸器系統の風邪(咳、鼻水、痰‥)
膝下外側を押さえて(足三里というツボ)痛い場合足の内側(内踝下)圧迫して痛い場合

正坐が及ぼす精神的作用

正座の効用

野口整体では正座が基本となります。慣れていないと膝や足首が痛くなるので敬遠されがちですが、身体が整っていると肩の力が抜けて呼吸のしやすい座り方となります。当院では指導を通じて正しい正座を身につけていただくことが、一つの目的となっております。

肩と下半身の関係

首や肩のこりの原因は沢山ありますが、肩こりと一緒に起こる頭痛などの原因が首から下の筋肉の緊張にみられることがあります。 人は背骨という一本の軸を基礎として立っていますので、首の疲れの原因が、背中や腰骨の状態から影響が上がってきていることがあります。

正座は骨盤を正しく固定する力がありますので、これをきちんと行うことで土台となる腰・骨盤が安定し、まっすぐな腰骨の上に背中や首が安定し、余分な緊張が抜けて結果的に上半身の違和感が解消されます。

腿の裏側と息の関係

正座に慣れてくると自然と上半身がまっすぐになり息がたくさん入ってきます。整体では身体の弾力と同時に呼吸の深さを大切にします。「息」は自分の心と書きますが、息がたくさん入る身体はいつも心に広く余裕が持てることを意味します。

そして正座をすると腿(もも)の裏側を踵で押さえる形になります。人は緊張すると腿裏からアキレス腱にかけての筋が縮んで踵がしっかりと大地に着かない、いわゆる「浮足立った」状態になってしまいます。整体ではこの脚の裏側の筋を押さえることで頭の緊張を抜く技術があります。正座は自分の踵で腿裏を押さえて頭と心をリラックスさせることができる合理的な座法と言えます。

野口晴哉先生のこと

野口先生のはじめた「野口整体」

「野口整体」という言葉を聞いたことがある方はよくいらっしゃいますが、では「どのようなものか」というと「整体」という言葉の持つ印象からさまざまなイメージを持たれるようです。特に現代では「整体」という技法が民間療法や治療の方面で多様化しており、野口整体も代替医療の一種としてみられる傾向がつよいと感じています。

「野口整体」とは野口晴哉(はるちか)先生(1911-1976)が始められた、「人間が〔今〕に全力発揮するための教育(体育)」です。ですからまずここでは、「野口整体」を知っていいただくために野口先生とその仕事について、私なりに見聞きしてきたことに自身の体験を重ね合わせて、ごくごく簡略に書き現してみたいと思います。

偶然の「手当て」の始まり

野口先生は二歳の時にジフテリアにかかり声が出なくなられたと言われています(後に「気合い」を修行して喋れるようになった)。そのためか、子供のころからよく本を読み、催眠術や自己暗示などにも関心を持たれていたようです。また小学校の頃にクラスの子の歯の痛みを手当てによって癒やしたという不思議な体験をします。

そして十二歳(大正12年)の折、関東大震災を体験して、そこでまず近隣に住む女性の腹痛を「手当て(愉気)」によって癒したことをきっかけに、被災された多くの傷病者に次々手を当てることになりました。ここから治療家としての活動が始まります。

「整体」の確立

その当時(大正時代)には霊術や霊学と言われる心霊ブームがありました。今風に言えば「スピリチュアリズム」の風潮に近いかもしれません。当時は折しも日本の近代化に伴い、西洋文明を取り入れて科学至上主義へと変遷していく時代です。その一方で、近代科学では解明できないけれども、それまで一定の効果や価値が認められていた技術や文化(従来の日本的価値観)を失わないように保護・再興しようという向きもありました。

そして戦時中に多くの民間療法家、健康法の指導者らが一同に集まり、各々が経験的に培った治療方法を残そうとする集まり(整体操法制定委員会)が発足します。それぞれが持ち寄った技術を適応する患者に施し、効果に一定の再現性が認められたものだけを集めてこれらを「整体操法」として纏めていきました。野口先生はその編纂の中心となって尽力され、日本屈指の技術を有する一大治療家として活躍される契機となります。

治療家から教育者へ

ところが、やがて多くの患者の求めに応じて精力的に治療を行うことに疑問を持つようになります。技術を高め、巧妙に治療を行うほどにこれを求める人の数はいよいよ増して、また自分の健康を他人任せにして平気でいるずさんな人たちが増えるのを見かねて、およそ次のようなことを考えられたようです。

「このままいくと地球の半分が医者になっても足りなくなってしまう。」
「人間は本来何ものにも頼ることなく、自分の健康は自分で保てるように出来ている。」
「もともと持っている力を十全に発揮するには、治療ではなく、そういう身心の教育(体育)を施す必要がある。」

このような経緯で「治療」を辞退し、教育家(整体指導者)へと転身されました。

野口先生が遺されたもの ―全生思想―

元をただせば、手当てを始めた10代より「活き活きと生を全うする」という独自の「全生思想」を打ち立て、17歳で興した活動団体を『自然健康保持会』と号していました。この時すでに思想家としての野口先生は完成していたとも言えるでしょう。

さらに「愉気」、「活元運動」、「体癖論」、など技術・思想の両面において、今後時代や地域がどのように変わろうとも揺るがない、普遍的な人間生命の捉え方、活かし方を確立されました。

野口先生の確立された整体法とは「心と体をどのように使えばいいのか」という基準を、外にではなく個人の裡なる「身体感覚(無意識)」に委ね、何ものにも依りかからずに自身の足で立って、生きて行くための身体の教養です。

折りにふれ、科学的医療に対する不信や限界もささやかれる現代において、外から守り庇うのみでなく、潜在生命力の発現を促すための「真の体育」として野口整体は今後ますます評価され、また再考され続けるものであると私は考えています。

活元運動

活元運動とは

活元運動とは、頭をリラックスさせて、人間の健康を保とうとする働き(自然治癒力)を活発にする運動です。小さなお子さんからお年寄りまで、呼吸法とストレッチによって誰でも自然に行うことができる、安全な体操(運動)です。

寝相がみんな違うのは人はそれぞれ疲労の傾向が異なるからです。そのため疲れを取るための格好や運動はみんな違います。手足をぱたぱたしたり、正坐のままぽんぽん跳ねたり、ころころ寝転がったり、活元運動はその時その人に合った動きを身体が感じるままに展開します。また活元運動は意識的にいつでも止められますが、それよりも運動が充分に出ることで身体が整い、自然に止まるほうが理想的と言えるでしょう。

「どういうものか知りたい」という方は体験していただくのが一番間違いがありません。ただ、独学ではなく正しい指導者に学ばれることをお勧めします。ここでは文章でできるだけ活元運動についてご説明いたします。

身体の自然に委ねる

ゆらゆら、ばったばった、ぐらんぐらん、始めて見た方は奇妙に感じる方もいますが、見る人が見ると「美しい」という評価もあるのですから不思議なものです。これが一体どのような運動なのかというと、「身体に潜在する体力を呼び起こす運動」と言うと適当かもしれません。そもそも健康に生活するために何かに頼る必要はありません。例えば、走れば誰でも心臓がドキドキしますし、食べれば自然と胃袋が動きます。そういう生理的な、ごく自然に行われている生命活動が私たちの健康を支える上でどれ程重要か、あまりに当たり前すぎてその多くが見過ごされています。

例えば「体温」などもそうです。暑くても寒くても平熱を保っているのは身体のバランス作用がいつでも働いてるからです。さらに、身体に雑菌が入ると、自然に熱が出て繁殖を食い止めます。ですが熱が42度を上回るということもありません(そのため体温計の目盛りは42度までです)。すなわち「生きている」というのはそれだけで、命のバランスを保つ力が完璧に働いているのです。

このような力(恒常性維持機能)をそのまま発揮できれば、外からいろいろなストレスを受けても自前の体力だけでみんな間に合います。ですから健康生活の実現といっても、これからそういう身体に「なる」という訳ではありません。もともと備わっている生命の力に目を向けて、積極的に自分の体力を使っていけばそれで充分です。そのためにはまず、身体がゆるんで活性化するために、頭を充分休める(ポカンとする)ことが大切です。

「ポカン」として身体(無意識)の動きに任せる

それでは具体的にどういう方法を取るかというと、意識活動が休まるように呼吸法と準備動作を行ない、その後瞑目してポカンとした頭で身体に任せていくようにします。

「息をやわらかく吐き切る」「背骨を捻じる」「延髄に力を集めて抜く」、というこの三つの準備体操を行った後、正坐か椅子座でひざの上に掌を上に向けて置きぼんやり待っていると、後はひとりでに運動が出てきます。すぐにそれ(活元)らしい運動が出る人もいますし、逆に活元運動が出るまでに時間のかかる人もいます。人によっていろいろですけれども、とにかく続けているとやがてはみんな出るようになります。

活元運動が出やすい人は身心が敏感だと言えますし、出にくい人は頭のゆるみにくい人です。自分で自分の感情や欲求などを「コントロールしよう」とする意思の強い方ほど、筋肉・内臓・骨などが固くなりやすいので、こういう方は活元運動をやっていくとだんだん生活が楽になっていあれます。

最初にも述べましたが活元運動は年齢や性別を問いません。スポーツと違って怪我をすることもありませんし、一般家庭で一畳ほどあればできる安全な運動なのでどなたにも勧められます。

興味を持たれた方は、当院でも月に一回土曜日に活元運動の指導を行っていますので、まずはお問い合わせください。

整体操法

体の流れを整える

野口整体では身体を調整する技術を「整体操法」、または整体を省略して「操法」といいます。

治療や施術という言葉を使わないのは、整体の本来の技術が他動的に体を調整したり矯正することではなく肉体本来の自然な「流れ」を取り戻すことを主眼としているからです。

例えるなら川の水を堰き止めたり流れを邪魔している石を見つけて、これをどけていくような作業です。

水の流れを阻害している石を一箇所どけることで、どっと水量が増えて流れ始めることがありますが、整体ではこれに似たことを人体上にみることができます。

大切なことは体の中の流れを乱しているポイントを正確に見つけ出すことです。そしてそれを的確な技術で取り除き、体の重心線を正したり、または血の流れや氣の流れ、意識の流れをスムーズにしていくことです。

背骨・脊椎へのアプローチ

人間の体運動や感情活動は全て背骨に記録されています。ですから操法の技術は主に、頭蓋骨から背骨、骨盤にかけて脊髄神経へのアプローチが主軸になります。

体の変調はかならず脊椎の目には見えないわずかな変化から起こります。整体ではこの変化をいち早く知覚して自分の力で正していけるように刺激することで、敏感な身体を育てていくことを目的としています。

身体の細かな感受性を育てることで大きくバランスを崩す前に疲労を修正し、健康を維持するための一定の秩序を身体に形成することができます。

体の刺激を通じて心へのアプローチ

近年、心的疲労やストレスから心理カウンセリングや心療内科を受診される方は増え続けています。整体ではこのような心のストレスや心理的な苦痛の原因も肉体と直結した問題として考えています。

例えば、笑えば全身の筋肉が弛み、怒れば固くなるといったように、人間の感情活動はすべて体に反映されるからです。

逆に体に与えられた刺激は、即座に心に影響します。整体はこうした心と体の関係性を使って健全な肉体から健全な精神を養っていく、そしてその精神が身体にフィードバックして健康生活を支えていくようにリードしていきます。

命を自然に帰す- 静を養う

整体の技術は全て身体の自然治癒力が前提になっています。治癒力が発揮されないのは、心の葛藤や、頭の余分な働きが身体の自然を乱しているからです。

筋にこわばりがあるうちは頭の緊張はほぐれません。操法によって体の疲労箇所を刺激し弛め、脳の過剰な働きを休めていくことが整体操法の要諦の一つです。

身体からコリやこわばりがなくなると、意識の活動が鎮まり身心に静寂が訪れます。身体は静けさを与えられることで初めて自然の働きが現れ、そこに治癒力が発現されていきます。

このように自然の流れを尊重しつつ、人為の及ぶ範囲で生命に介入していく、それが整体操法の根本理念であると言うことができます。

愉気 – 野口整体の気の手当て

生命のもとは「気」と「勢い」

中国の古典思想書『荘子』の中に、「生と死は一つの現象である。気が集合するとそこに命が生まれ、気が散ると死に至る。」という一説があります。

整体は病気や怪我のような表面的な現象よりも、その人に「元気」や「活気」、また「勢い」があるかどうかということを最も重要視します。

どんなに重い症状に苦しんでいる人でも、体の奥に勢いがあればそこから自分の体力で回復します。逆に勢いがなくなると、小さな病気や怪我でも寝込んでしまうことがあります。

整体の全ての技術はこうした「気」の性質に着目して、構築されています。

愉しい気で包む

そこで整体では「体から元気や勢いが抜けてしまった時はどうしたらいいか?」ということを考え、生きた身体を見続けた経験から「気が欠乏したところに気を集める」ことを考案しました。

整体では自分で意識をコントロールして身体の必要なところに気を行かせることを「行気」(ぎょうき)といいます。また自分の手から他者へ送ることを「愉気」(ゆき)といいます(触れなくても愉気はできます)。

はじめは輸血のように「気を輸送する」、という意味で輸気と書いていましたが、やがて気は輸送するものではなく、相手を楽しい(愉しい)気で包んで中の勢いを活発にしていくことであると考え、愉気に変わったといわれています。

気は共鳴する

人の回復力や生命力を考える上で、気持ちやメンタルの占める割合は存外に大きくこれを無視することはできません。

例えば風邪をひいている時に、気の合う人と会って話したり、楽しい空想をすると急に顔色が良くなったり体が軽くなることを経験された方はいらっしゃると思います。

こんなふうに「元気な人につられて元気になってしまう」ということが、人間の生活ではよくあります。

整体ではこれを「感応」といいます。

つまり元気な気、快活な気で人に接することで、相手の元気を誘うのです。これを意識して用いれば「愉気」となり、愉気をベースとして体の各処を刺戟する技術を総じて「整体操法」といいます。

障子越しのやさしい明かり

愉気は通常患部に手を当てて行いますが、触れなくても離れていてもできます。

「手を当てると良くなる」と思うと初心のうちはどうしても手に力が入りやすいのですが、本来は愉気をする方も受ける方もできるだけリラックスして行います。

なぜなら力みや緊張は体の回復作用を妨げるからです。

真夏の太陽は爽快ですが、浴びつづけるとやけどをしてしまいます。これと同じように、強い光源よりも、障子越しのかすかな明かりをイメージして行うことで体の中に深い安心感が生まれます。

上手な人の愉気を受けているとつい眠ってしまうことがありますが、「なんとなく気持ちがいい」という感覚を大切にすることで相手はゆるんできます。

心身ともにゆるんでくると、肌がしっとりと汗ばんでくるのでそこで愉気をやめると呼吸が深くなり視界が開けます。

実際に受けたりやってみると小さな刺戟でも、体が変わることを実感されると思います。

気は言葉で説明しようとするとわかりにくいものですが、体験することで誰でも感じることができる生き物の共通感覚といえるでしょう。

野口整体とは その2

野口整体の由来

野口整体という名称は、主に昭和の時代に整体法の創始者として活躍された野口晴哉(はるちか)先生のお名前に由来します。この野口先生による独自の生命思想を基にまとめられた技術が現在広く行われている「整体」の原型となっています。その技術理念や思想体系が皆さんの知る整体とは異なるために、これを他と区別するように一般に「野口整体」と呼ばれるようになりました。

野口整体は体の歪みを手で押したり揉んだりすることで整えるような、骨格の矯正法や治療法ではありません。また「病気を治療して健康になる」という二元対立の世界でもありません。

整体の生命観においては「病症は身体を整える働きの一つである」と考えています。健康な一生の中に病気や苦しさがあり、これを乗り越えることで潜在体力を奮うことが出来るのです。つまり「治るはたらきと、こわすはたらきはどちらも一つの生きる力である」ということです。整体という生き方は、身体に不調を感じた時にどのように対処(治療)するかということではなく、身心の勢いをいかに引き出し、自身に内在する力を使って元気よく生活することに重きをおくものです。野口整体の本質は人間の気力や集中力の発揮を目的とした潜在体力の発揚法であると言えるでしょう。

感情と身体の関係

人間の身体には始めから命を全うしようとする力が備わっています。健康や病菌の知識を持たない子供でも、自分の力で自然に食べ、眠り、育ち、元気に生きています。生まれたばかりの赤ちゃんでも、寒ければくしゃみをしますし、暑ければ汗をかいて体温の調節をしています。

ですがこのような身体に具わる自然の力(恒常性維持機能)は、生活の中で起こる不快な感情によって身体が偏ることで、充分発揮されなくなります。驚いたり、怖かったり、ムッとしたり、などの負の情動が無意識的な筋肉の緊張を引き起こし、自律神経系のバランスを一時的に失わせるのです。こうした情動によって呼吸が浅くなり、さらにそこから消極的な空想が次々と湧いてくることで、身体の秩序回復機能が弱まり病症や苦悩を乗り越える力が正常に発揮されなくなるのです。

現代では病気はもっぱら「医薬によって治すもの」と考えられていますが、本来は薬に人の元気を呼び起したり命を育む力は備わっていません。整体の役割りは、身体を過度に守り庇おうとする考え方や技術から離れ、人間が生まれながら持っている潜在体力の自覚と発揮をうながす所にあります。

「病症を乗り越える力」と「人生を切り拓く力」は同じ一つのもの

身体に起こる不快な症状の多くは、心や体が偏り、本来の姿でないことを知らせてくれています。 つまりそれは身体の安全弁、警報(アラーム)のようなものです。その声を無視して症状だけを取り除く対症療法は、身体に備えられた自然の治癒力を歪めてしまいます。

そもそも野口整体には闘病という概念がありません。症状を治療の対象と見ず、むしろこれを潜在する余剰体力として認め、積極的に経過させることで鬱滞する身心を刺戟して刷新することを期待します。このようにして「生きているものの生きている力を振作し、より活発な状態」にすることを奨励するものです。 何事も自らの体力によって乗り越えることで、丈夫な身体を自覚し、僅かな凝滞もない澄んだ心(天心)を保つことが大切です。

整体とはそのような「生き方」、或いは「生きる態度」を現す言葉ともいえます。もちろん自身の生命に対する信頼を揺るぎないものにするには一定の期間を要するものですが、自身の一生を悔いなきものとするためにも先ずはこれまでの健康観を一掃し、自身に内在する「力」に気づくことが何より求められるのです。この整体という生き方を体現すべく整体指導と活元運動を活用していただきたいと思います。