「人生」を創造する病症体験

病気によって生命の偉大さに気づく

病気というのは、実際厄介なものです。痛みや痒みで体の自由を奪われたり、心の病なら、理由もわからずに暗い気持ちになって落ち込んだり、今までは何の気なしにやれていた仕事がある朝急に意欲が出なくなったりします。いずれも重度のものになると、これまでの生活を一変させるような破壊性を持っているものです。

それだけに病気になったら、一日でも早くその問題から解放されたい、つまり「治したい」と思うのが人情でしょう。

そこで近・現代では特に「科学的な」医学、医術というのが大変有力であるということで研究され、その結果、ある面では目覚ましい進歩を遂げてきました。

ところが皆さんもよくご存じのように、それだけで治らないものが世の中にはたくさんあります。そこで「どうしたものか…」ということになるのですね。現代の日本では病院(西洋医療)で手に負えないと思われた人たちが「代替療法」という未知の枠組みにおそるおそる立ち入っていく、というのが一つのスタンダードになりつつあるようです。

そこで新たに治る人もいますし、またそれでも治らない症状というのは当然あるわけです。そうすると、本当に助かりたいと思う人は「これは一体どういうことなのか?」という風に、「何故か?」ということをようやく「自分なり」に考えざるを得なくなってくるのです。

野口整体の整体指導とか、心理カウンセリングというようなものは、いわばこういう万策尽きたとでも言えるような状態になってはじめてお呼びがかかる、「最後の砦」として現れることが非常に多いような気がします。

そして、この「何故か?」という態度がゆくゆくは生命に対する謙虚さであるとか、畏れのようなものに通じる非常に大事な心の動き(伏線)である、というように私は思います。

病気は生命に備わる自然良能

病気というのは誰がやっているのかといえば、いわゆる「私」ではありません。先ほどから言っているように、「私は、治りたい」と思っているのですから‥。確かに私の心とか私の体の中に起こっている問題なんだけれども、その「私」という生命の中には(心にも体にも)私のあずかり知らない広大な未知の領域があるのではないか、とこういう風に考えることができるのです。

このような考え方を、心という枠組みの中だけにしぼって西洋で最初に表明したのがフロイトであり、その考えを部分的に否定しながらも発展的に深めていったのが彼の弟子筋のユングですね。

そんな未知の領域が本当は「私を生かしている力」として、非情に大切であり重要な働きをしているのだ、ということをユングとか野口晴哉という人は言っておられるわけです。この「未知の領域」についてはその場合場合でいろんな呼び方がされますが、よく言われるのは「神さま」とかそういうものです。

私の場合はこれを「自然」と呼ぶことが多いのですが、とにかく身体の中に、生まれてからずーっとバランスを取ってきているものがある。と、そういうことが事実の方からみていくとだんだん、だんだん認めざるを得なくなってくるわけです。

ごく身近な例をあげれば、ご飯を食べてもそれを知らない間に血肉に変えたり、うんちにしたりしています。それは眠っていても、人とおしゃべりしていても、本を読んでいても、絶えず働いているわけですから、誰がやっているのかといったらやっぱり「自然」がやっているのだ、ということができると思います。

病気というのも、実はこの「自然」がやっているものです。

例えば口から黴菌が入れば、それを食い止めようとして、咳もするし扁桃腺が腫れて発熱もします。咳は異物を体の中に入れまいとしているし、熱が上がれば黴菌は死ぬわけですから、これが病気の正体というのは身体を守ろうとする自然(本能)の働きなのです。

ところが熱が出ても咳が出ても、現代の多くの人たちはその働きをはなっから「悪いもの」としか考えていません。だからどうにかして止めさせようとするわけです。そうして、すぐに解熱剤を飲んだりして黴菌の方に加勢するのですから‥、こういうことが「治療」として行われていることは実は大変可笑しいのだ、と言わねばなりません。

治療とは、医療とは何か

先に挙げたように「治そう、治そう」とがんばっている間は、これは、言ってみれば「自然」と一所懸命戦っているようなもので、まず上手くいくことはありません。頑張ればそれと同等かちょっとオーバーするくらいの力で自分に跳ね返ってきますから、こんなことを繰り返していては誰だっていい加減疲れてきますね。せい氣院にはプロの看護師さんも整体を受けにいらっしゃっていますが、時々こうした問題ですごく疲れている方が相談に来られることがあります。

どういうことかというと、自分の看ている患者さんが、担当医が「何かする」たびに悪くなる、というのです。熱が出たら下げる、血圧が上がればこれも「基準値」まで下げる。それから入院されている方は、運動不足なうえに御飯だけは一人前に食べていますから大抵は夜眠れなくもなってくるのだけれども、そうすると睡眠薬とか、いろいろとやることは際限なく出て来るわけです。

ともかく、どうにかして身体(自然)を抑え込もうとするのです。でも先ほども言ったように、抑えようとすると身体は抵抗します。そうこうしているうちに、患者さんは昏睡状態になったりするものですから、こういう現状をみては「自分たちのしていることは果たして医療なのか‥」という風に、すごく悩まれている医療従事者というのは今や結構な人数がおられるのではないか、と私は思っています。

ただし、こんな風に西洋医療の功罪ということを考え出すと、一朝一夕で善いとか悪いというふうには、これはとても言えませんので他に機会を譲りたいと思います。ここでは一体「病気」というものにどう向き合っていったらいいのか、ということを考えてみたいと思います。

病気は使いこなして、身体を丈夫にする

例えば今ここに、ある人が「病気をした」なんていう場合に、整体特有といいますか野口整体では非常に面白い表現をするのです。つまり、病気は治すものでもなく、恐れるようなものでもない。では何かというと、それは「こき使うものである」というのです。

だから熱が出ているんだ、といったら後頭部を蒸しタオルで少し温めたりして、もうちょっと熱が上がりやすいように助けてやるのです。下痢をした場合も同じで、要は「何もしない」わけです。

何もしないというと誤解される方もあるかもしれませんが、つまりこちらから身体のやろうとしていることに「ぶつかっていかない」のです。もう少し違う表現をすると、「何もしない」ということは身体に対して協力的態度で接するということです。

そうしながら、心を落ち着けた状態で病気が経過するのをひたすらじっと待っています。こうすることによって病気をする前よりも、病気を経過することで身体のバランスを回復させていこうと考えています。

ただそのためには「身体の感覚」というのがある程度純粋でなければなりません。身体というのは成長するにしたがって手入れを怠ると鈍くなってきますから、例えば変なものを食べても赤ちゃんならすぐに吐いてしまいますが、大人になると平気で飲み込んで、下痢をするまでに時間が掛かります。

それから50歳を越してから40℃の熱を出すなんて人は滅多にないですね。それだけ体力だって衰えてくるのです(発熱するにはそれだけ体力が要ります)。それでも病気をすることによって、そのことが潜在体力の起爆剤となって心身は活性化するのです。

創造の病-人生を補完するための病症体験

一般的には「健康」と「病気」は二律背反という形でとらえられていますが、つまるところ病気というのは生命の健康であろうとする働きのひとつの側面です。体でも心でも「苦しいときに治っている」ということが体験を通じて見えてくると、少しずつ対応も変わって来ると思います。

そういう意味で整体というのは常識とは大分変わった世界観や生命観で人間を見るところがあります。ですけれども、そういうことから「苦しい病」、「治らない病気」の中にある人が、どんなふうに生きていくか、ということを別の視点で考えていくことができるのではないでしょうか。

これはもちろん個人個人、みんな苦しみの大小、質、内容というものは違いますから、「病気を通してあなたの人生をちょっと考えてみませんか」などとはうっかりは言えません。言えませんけれども、そこに一体どんな意味があるのか考えてみる、という態度をその方が知っているかいないかとでは、やはり同じ病気を経過する場合でも何かが違ってくると思うのです。

例えば先に名前をあげました心理学界の二大巨星とも言えるフロイトとかユングなどは、自分独自の(心の)病を自分で乗り越えて行ったことで自身の創造的な仕事や人生を創り上げていった一つのモデルとして考えることができます。

実はこれはアンリ・エレンベルガーというカナダの精神科医が見出した「創造の病(クリエイティブ・イルネス)」という考えをそのまま述べているのですが、病気や苦しみというのをそのこと(部分)だけにとらわれずに、その人の全心身とか全人格、人生の全体性という巨視的な視点に立って考えることで、そこに重要な意義を見出すことができるのだ、というのです。

そこで最初に戻りますが、やはり病気というのは辛いですし非常に怖いところはあります。ですけれども、それだけに心も体も普段は味合わないような揺さ振りを体験するものです。そういう中で、ゆれてゆれていった結果として、自分の中にある芯(中心軸)とも言えるような重要な個性が見つかったり、あるいはふっと誰かを頼ったときに意外な人間関係の展開が起こったりすることろが病気の面白いところでもあるのです。

こういうことから、病気というのは「よりよく生きようとする無意識の訴えである」という風に考えることができるのです。これも実際のところ嘘か本当かは、はっきりとはわかりません。でもわからないものですから、どなたでもずーっとその意味を考えていくことができるのだ、ともいえると思います。だから先の見えない苦しい状態にある人も、諦めないでそのことに一体どんな意味があるのかを自分自身に訊ねてみる、という道だけは残されています。

野口整体の場合は潜在意識教育といって自分の気づいていない心の領域の純化を提唱しましたし、ユングも無意識に備わっている、現在の自我に対する相補性ということをとても大切にしているのは、上に挙げたような思想哲学を共有していることの現れだ、とも言えると思います。