整体である、とは
整体とは無病ではない
整体とは「敏感で弾力があり、刺激に対してすぐに反応できる体」のことです。
具多的にいえば、食べたものが悪かったらすぐに吐く、もしくは下痢をするということも健康を保つ反応の一つです。
また病菌が侵入すればすぐに発熱してその繁殖を防ぐ、ということがスムーズに行えるのは体が整っていればこそ行なえる生理的な自衛のはたらきです。
よって整体指導を行う目的は、体を敏感に保ちもともとの体力を呼び覚ますためであって、何か特定の病気を治すために行うものではありません。
整体であれば病気であっても自身の体力を動員して自然の経過を辿って治ります。むしろ病気を活用してそのたびに体は整います。
反対にいま病気がなくても突然重い病気になって動けなくなったり、病気がなくても突然ばたっと倒れたりしてしまう体もあります。このような鈍った体は「不整体」です。
子供でも、弾力のある元気な子供ほど、病気を繰り返してさらに丈夫になっていきます。熱を出したり下痢したり、発疹したりすることは丁寧に見るとみんな体の調和を保つ健康の働きであって、抵抗力のある体はそうやって時々体の大掃除をしながら無事を保っています。
大人よりも新しくて体に弾力のある子供がよく高い熱を出すのはこのためです。
よって病気の症状があるかないかという基準のもとに、その人が健康であるかどうかを区分することは適当とは言えません。
息一つ
整った体は自分の体だけでなく、外界のあらゆるものとつながりを持って、同じ一つのリズムで動いています。
この全体との自然調和した状態が健康です。
しかし利害得失や毀誉褒貶、そこから生じる気張り、気取りなどによって自我が自然から切り離され、本来のリズムから逸脱した生活になります。
こうしたことでリズムを失い息を乱すともはや整体ではありません。
頭をポカンとして、無意識から生じる裡の要求に委ねて動くことが肝要です。
無自覚の緊張
「不整体である」ということを少し別の角度から説明すると、体の中のある部分の筋肉がゆるまない、ということです。
筋肉が緊張すると筋紡錘という器官を通じて「その緊張している」という信号が頭に伝わり、考えることや思い浮かべることに影響します。
筋肉がかたいと思い浮かべる内容もどこか合理主義に偏ったり、実利的なことばかりを追っかけて考えるようになっていきます。別な言い方をすると物事の見方や発想が近視眼的に偏るのです。
これがつづくと意識が過剰亢進して常に何かを求め、駆り立てられるように頭が動いているような状態になります。現代はこのような状態が常になっている人がたくさんいます。
鬱とかノイローゼと呼ばれるような心の凝り固まった状態、あるいは癌や肝硬変のような臓器の凝り固まったものでも、その人の体全体を丁寧に観ていくと、体の筋の硬張りとかその人の空想との関りをつよく感じることがあります。
いろいろな病気とか心の問題とか言われるものを見ていくと、最終的には体の中にある無自覚な緊張、や硬張りと切り離して考えることはできません。
整体とは心にも体にもしこりを持たない、全き状態です。
そのため整体法においては身体各部が十分に弛み、引き締まることができるような、弾力のある状態を保つことを何より大事にしています。